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tealdice [shortland VIII-L12 half-b] tealdice debris「対話」 tealdice

「対 話」

 いつもと違う部屋で、彼女は戸惑っていた。
 うすい灰色の壁は青白さを浮き立たせ、よそよそしさを滲ませていたし、作り付けの書棚は、慌てて片付けたあとらしく、がらんとして所在なかった。見知らぬ部屋の中、白い箱の中で、彼女は自分がただの黒い点になったように感じていた。
「待たせたね」
 声と共に、この部屋の仮の主が入ってきた。彼は自然に歩を進めると、中央の机の前で椅子を引いて座った。あまりに手馴れた様子だったので、ラクリマはそれまでの他人行儀な印象をすっかり忘れてしまった。それどころか、パシエンスの院長室とさして変わりないようにすら思った。
「ゆっくり話すのは久しぶりのようだね」
 クレマン院長は穏やかな笑みを湛えて話しかけてきた。
 ラクリマはそれに安堵して、この数日間に自分の知ったことを報告し始めた。自分にきょうだいがいたこと、最初に知り合ったレスタトと先々月に亡くなったジェラルディンが実は弟妹だったこと、そして今一緒にいるカインはレスタトの双子の兄であり、自分の異父弟にあたるらしいこと。
 クレマンが自分のことをどこまで知っているのか、ラクリマは知らなかった。何も知らないかもしれず、すべてを知っているのかもしれない。だが、この際、それは重要でないように思われた。
「それで、私はまだちゃんとお会いしてないんですけど、ガラナークのアンプールというお家から騎士の方がいらしていて……」
 ラクリマの目はだんだん下を向いていった。
「本当はジェラルディンさんを迎えにいらしたんですけど、ジェラルディンさんがお亡くなりと聞いて、今度は……」
 ラクリマは、床から一寸目を上げた。自信なさそうな口ぶりで、
「わ、私、を、連れて帰りたいって……」
 刹那、彼女がこれまでに感じたことのない怒気が室内に立ち上った。ラクリマは怖くなって口を閉ざした。
 クレマンはすぐに彼女の様子に気づき、自制した。彼は努めて平静に尋ねた。
「どうして彼らには君がジェラルディンのきょうだいだとわかったのですか?」
 怒気はほとんど消えていた。(なんだったんだろう……。)ラクリマは不思議に思いながら、彼らが神に伺いを立てたらしいことを説明した。
「………」
 クレマンは黙り込んでしまった。常の彼とは些か違う雰囲気で、ラクリマは戸惑いながらじっとしていた。部屋のよそよそしさが少し甦ったような気がした。クレマンは、何かを深く考えているようであり、あるいは何かを懸命に抑えているようであった。
 ややあって、彼は目を上げた。娘を見て、
「君は?」
と、声を発した。それから気づいたように、「君はどうしたいのですか?」と丁寧に聞き直した。
「…院長様はどう思われますか?」
 ラクリマが遠慮がちに言うのを聞いて、クレマンは再び押し黙った。が、すぐに言った。
「こちらにおいで」
 ラクリマは立って院長のそばに寄った。クレマンは座ったまま彼女を少し見上げるようにしていたが、やがてその両手を取って言った。
「大きくなったね。パシエンスに連れ帰ったのが12年も前だなんて嘘のようだ。つい昨日のことのように思っていたが」
 そうして微笑んだ。
「親が子をいつまでも手許に留めておけないことは、私もわかっているつもりだ。いなくなってしまったら寂しいが、君が行きたければ行きなさい。行きたくなければここにいればいい。どちらでも、私たちに気兼ねする必要は何もないのだよ。君が幸せであればいいのだから」
 彼の手は大きかった。その手のひらから、指先から、温かな熱が伝わってくる。流れ込んでくる、温かな思いが……。
 ラクリマの頬を涙が伝った。
「わ、私……行きたく、ありません」
 行けば、目の前のやさしいひとともお別れせねばならない。きっと、二度と会えなくなるだろう……そう把捉した途端、哀しくて涙が止まらないようになった。
「離れられません」
 自分を慈しみ育んでくれたこのひとと、離れたくないと、どうしても行きたくないと、彼女は強く思った。しゃくり上げながら、もう一度口にした。
「離れ…られませ…ん……」
 クレマンは静かに娘を見守った。
「でも」
 ひとしきり泣いたあとで、ラクリマは再び口を開いた。
「でも、殺すのはイヤなんです」
 いきなり話が飛んで、クレマンには事情を掴みかねたが、彼女と話すときにはよくあることだった。彼は次の言葉を待った。
「カインさんが、ただ断ってもだめだろうって……力ずくで連れて行かれるから…」ラクリマはちょっと身震いした。「だから、その使者のひとたちを、か、片付けたらどうか…って……。」
 言葉や真心で納得する相手ではないらしい。さもありなん、と、クレマンは思った。目の前の娘はまた泣いた。
「私、行きたくありません。でも、それはわがままなんですか。私が、臆病だから、みんなと離れて向こうへ行く勇気がないから、いけないんですか。ひとの…人の命を奪うくらいなら、我慢して行くべきなんでしょうか。それとも、仲間を煩わせたくないなら、こ、殺すと、決めるだけの勇気が必要なんでしょうか。殺したくないって、そう思うのは甘えなんですか。私……」
 ラクリマは一気に語って瞳を閉ざした。
「私は、僧侶なのに……殺してばかりです……」
 語尾は消え入りそうに小さく、その間も涙は止まるところを知らなかった。
「ラクリマ」
 暫くして、クレマンは口を開いた。
「生きることはのたうつことであり、人生は慟哭の劇場でしかないかもしれない。だが、痛みを恐れてはならない。泥に塗れることを恐れてはならない。泥は泥でしかないが、それが泥であることを知る者は、知らぬ者より美しい人生を送ることができるだろう」
 彼はふっと表情をゆるめ、
「君が行きたくないのなら、行かずに済むように、君なりに手を尽くしてごらん。答はその中で見つかるだろう」
 言いながら、両手を離し、上に伸べてラクリマの頬を挟んだ。娘の、金ともうす緑ともつかぬ瞳が自分に向けられた。まるで玻璃のようだと思いながら、
「神の祝福があるように」
 顔を引き寄せ、額に接吻した。彼にはこれ以上語る言葉がなかった。
「……もう行きなさい」
 ラクリマは部屋を出る前に彼を窺い見たようだった。クレマンは安心させるように、微笑んだ。

 トーラファンが自室に戻ると、自分の椅子にクレマンがちゃっかり座り込んでいた。
「どうした?」
 クレマンはじろりと一瞥をくれただけで、言葉を発しなかった。
「……珍しいな、怒っているのか」
 トーラファンはおもしろそうに聞いた。クレマンは相変わらずぶすっとしたまま、睨むように壁の一点を見ていた。
「で? 何があったんだ?」
 クレマンが口を開こうとするのを、トーラファンは「ああ、待て」と押し止めた。
「フィーファリカに酒でも持ってこさせよう。構わんだろう?」
「ああ」
 確かに、酒でも飲りたい気分だった。娘を横取りされそうで怒りを静められないのだと、言えばトーラファンはわらうだろうか。目の隅で旧友が酒の用意を言いつけているのを見ながら、クレマンは「ああ」とため息をついた。

(460年5月17日、夜)