隣の男はすっかり寝入ったようだった。
女は彼の腕をやんわりと解き、寝台から滑るように降りた。閑かに窓へ寄った。北からの海風さえ吹かなければ、カノカンナは冬でもあまり寒さが厳しくない。今晩は凪で、窓かけの布も雨戸も開け放してあった。星がよく見える。
久しぶりの夜空だった。
そのせいかもしれない。さっきから、父のことばかり思い出している。
彼女の父、デリダ=メリシェンは天文に詳しく、星座に関する知識を片っ端から教えてくれたものだった。夏の到来を告げる星座、真冬にしか輝かぬ星、また神代の人物から名を戴いた星座、それから……。
「ごらん、オルフェ。ユーリも出ておいで。一緒に見よう。そら、地平に赤い星が見えるだろう。星座の心臓だ、あれが……」
やさしい声を思い出しながら、彼女は身を震わせた。互いに互いの腕を抱くようにして、だが、顔は凝っと夜空に向けたままでいた。
今はだれも教えてくれない。だれも、夜空のもとで語ろうとしない。いや、最近では工房は外出禁止になってしまって、ひとりで夜空を見あげることすらできない。こうして旅行にでも出ない限り、夜も昼も空など眺める機会はなかった。それがどうというわけではないのだけれど。
(…お父さま………)
彼は、実の父親ではなかった。貴族の血を引きながら孤児であった彼女を引き取り、育ててくれたひとだった。それまでの彼女は、同じような貴族の孤児や、血筋正しくもその生を望まれなかった子ども、庶出の子女らが放り込まれる館にいた。
父は、私を引き取るのに少し苦労したらしい。男親しかいない、それも結婚したことも子どもを持ったこともない人間ということで、手続きも至極面倒だったようだし、あの館---「赤瑪瑙館」の主は足下を見て多額の賄賂を要求したらしい。館の人間はみな、少しでも厄介者の子どもを減らしたくてしょうがないくせに、いざ引き取ろうという人間が現れるともったいぶってみせる。彼らが里親から熱意に応じた謝礼を搾り取っていることは、後になって知った。
父も、かなりの額を支払ったらしかった。引き取られて数年後に世話係のユーリからその話を聞いたとき、私は嬉しかった。私はこの家に望まれて引き取られたのだと思って。
実際に父がどんな理由で私を引き取ったのか、それは知らない。いつか訊こうと思っているうちに、帰らぬひととなってしまった(その死を思い出すと胸が苦しい)。最初に私が考えたように、家を継がせるためではなかったみたいだ。私が年頃になっても、父は私に婿を迎えようとはしなかった。「しなかった」というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも私の結婚にそれほど積極的ではないようだった。
だれかの面影を後ろに見ている、そんな気がしたこともあった。私を素通りして。もしかすると私はだれかの身代わりだったのかもしれない。それでもよかった。どんな理由でもかまわない、私は必要とされていたのだから。メリシェンの家は、確かに私の居場所だった。幸せだった。
そして、失われた。欠片も残さずに。
今居る場所は---工房は、どうしても自分の居場所とは思えない。なぜなら、あそこではだれも私を必要としていないから。
過ごしにくいわけではない。あの工房で、私は自分が分析や分類に向いていることを初めて知った。本当に、分析はおもしろい。立ち現れる象(かたち)に名前を与え、記述する。いくつかのフィルタにかけて、一番「らしい」場所へ格納してゆく。そうするうちに、枠組みと、その中の機構ができてきて、記述のしかたが逆に規定されてゆく。それにまた新たな分析結果が加わって………現象に説明を与えるのは苦手だけれど、それらの記述と分類は本当に楽しいし夢中になれる。
でもそれは私でなくてもできること。
プログラムさえ作ってしまえば、ロルジャーカーにだってできることだ。
私を呼んでくれた工房の主---ダーネルも、私を本当には必要としていない。
彼にとって私は……そう、私もひとつのサンプルにすぎない。代替品があればそれでよく、この個体である必要はない。ちょうど檻の中に飼われているモンスターたちと同じ。違いは檻の中にいるか、その外にいるか、それだけだ。
フレッドとの結婚も、ダーネルにとってはよいサンプルだったのだろう。そうでなければ、なぜあんなに私たちをめあわせることに執着したのか、理解できない(フレッドへの嫌悪で気が狂いそうだったあのころにも、ダーネルは半ば無理矢理に私たちをカップリングさせようとしていたのだ、おそらく興味本位で)。
普通に考えるならば、ダーネルには感謝すべきなのだろう。衣食住に不自由せずにいられるし、今回の新婚旅行やこの間の結婚式のような便宜を、経済的にも他の面でもはかってくれる。頭ではそうとわかっているのだけれど、どうしても素直には感謝できない。
自分がサンプルと見られている、そのことでダーネルを責めるつもりはない。私だとて、他人を分析材料として見てしまうことがしばしばある。鷹族の能力を持つジルウィンも、膂力の並はずれたダルフェリルも、研究せずとも興味深い対象だ。彼らや、生命体に限らない、何かを見ると分析している自分がいる。似たようなものだ。
必要とされない、そのことでだれに何を言うつもりもない。理に適わないことはしない。
ただ………………。
(私は、だれかにとって必要な人間になれるだろうか?)
オルフェアはふっと息を吐いた。工房では無理だろう。あそこは、私の居場所にはならない予感がある。
(因果だこと)
人前では決して見せたことのない、嘲るような笑みを彼女は浮かべた。
こうした予感や勘といわれるものが、あながち全くの無根拠でないと知ったのも、工房での研究を通してだった。勘といえばオッカルトな要素のように思いがちだが、実際にはそれまでに蓄積されたデータや経験則から導き出されることも多く、そう馬鹿にしたものでもないのだ、と。だからきっと、今は予感でも………。でも今は、あそこに避難しているしかない。私にその覚悟がないから------
寝台でアルフレッドソンが音を立てた。彼女は振り向いた。
(フレッドは……私なんかのどこがよかったんだろう…?)
わからなかった。内面ではないだろう。私がこんなことを考えているなんて、彼は夢にも思わないだろうから。
卑怯者のオルフェア。だれかに望まれたいと思いながら、彼にとって必要な人間になろうとは思わない---思わない……ええ、そう、決して思ってなどいない……。彼は私を好いてくれているけれど、私を必要としてるわけじゃない。フレッドは強いひと。きっとだれも必要としては……。
こんなふうに考えていると彼が知ったら、私への熱もさっさと冷めただろうか。もっと前に教えればよかったのだ。仮面をはずした先の、卑怯者の私を。
オルフェアは窓の桟から手を放した。氷のように冷たかった。この手。彼女は自分の手が嫌いだった。すぐに体温を失って冷たい石のようになるから。まるで生きていないみたい。
今一度、空を見上げた。雲が出てきているのか、先ほど見えた星の半分は姿を消していた。世界が暗く感じられた。彼女は窓を半分だけ閉めると、音を立てぬように寝台に戻り、冷えた身体をそっと布団の中に潜り込ませた。結婚したばかりの夫を起こさなかったかどうか、隣を見た。
(………きれいな顔)
実際、彼は信じられないくらい美しい容貌の男だった。こうしてものも言わずに眠っていると、とりわけそれが顕著に感じられる。そのまま眠ろうとしたが、なぜだか全然寝付かれなかった。少しして、もう一度男の顔を見ると、いつの間にか薄暗がりの中で二つの瞳が光彩を放っていた。オルフェアは驚いて小さく謝った。
「お、起こして、ごめんなさい」
「貴女のせいじゃありませんよ。……眠れないんですか、オルフェアさん」
言いながら、彼は彼女の手を探った。熱っぽい掌で、彼女の、石のように冷たい手を包み込んだ。温かくて気持ちがいい。血がめぐり出したようだと彼女は思った。何となく彼に悪い気がして、「私、今、冷たいから」と、手を引き抜こうとした。
結果は、かえって強く握られただけだった。
「冷え切ってますね。寒いですか」
もっとこっちへ、と、アルフレッドソンは彼女に腕を回そうとした。
「あ、あなたが冷えちゃうでしょう---」
オルフェアは慌てて身を引いた。アルフレッドソンは手を止め、彼女をじっと見た。
「………フレッド?」
何か言わないと間がもたないような気がして、オルフェアは彼の名をこわごわ呼んだ。彼には何度となくこうして見つめられているのに、彼女は未だにそれに慣れなかった。
「愛しています」
突然、彼は言った。暗くてよくわからないが、オルフェアの頬に朱が差したようだ。
彼女が何を思い悩んでいるのか、アルフレッドソンにはわからなかった。ときどき、昏い眸をしてどこかへ行ってしまいそうになる。それを引き留める術があるのかは怪しかった。自分にできるのは、せめてこの気持ちを伝えることだけ。
「愛しています。僕の傲慢さを許容してくれた貴女を。僕を赦してくれた貴女を」
彼は彼女を引き寄せ胸に抱きしめた。
「心から、愛しています」
オルフェアは何も言わなかった。いつものことだ。だが、彼女の身体から頑なさが消えて、素直に身を預けられたのがわかった、それだけでアルフレッドソンには十分だった。
どうしてこのひとは、こんなにも容易く、大切な言葉を他人に与えられるんだろう?
(彼と一緒に、生涯を生きられるのかもしれない)
いいえ、これは感傷。感傷でそんなことを思いなしてはならない、と、オルフェアは一瞬の思いを押し潰そうとした。
ただ、この温もりが。彼の身体から伝わる熱が---そういえばあまりの体温の高さに、最初は本当に熱があるのではないかと心配したこともあった---それが心地よくて、拒めない。だから、今は。
(私は、彼に何かを与えられるだろうか)
彼女は一切の抵抗を放棄し、彼の包み込むような優しさに身を委ねた。
「もう寒くありませんか」
アルフレッドソンの問いに応えはなかった。
「……オルフェアさん?」
オルフェアはすっかり寝入ってしまっていた。
「………」
アルフレッドソンは彼女の寝顔を見た。起こしたいような誘惑を斥けつつ、睡魔が再び訪れるまで暫し見つめて過ごした。
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