[shortland VIII-11] ■SL8・第11話「偽りの真実・真実の過去」■ 〜目次〜 1■夜襲 2■異変 3■安らかに眠れ 4■夢の余韻 5■花のある家 <主な登場人物> 【サーランド時代】‥‥( )内は同期元 ★ダーネル=リッシュオット  ダーネル工房の主。伯爵。大魔術師。自力で魔法が使え、魔法奥義も能くする、いわゆる「変わり者」。都市における財産を処分して「恵みの森」に工房を作った。都市部では生きられない変わり者らを集めて、主にトランスミュート能力を持つ怪物の研究、生産を行う。 ☆リズィ=フォア・ローンウェルハ(ヴァイオラ)  ダーネル工房主任研究員。下級貴族出身。家族と折り合わず、魔術師でなく僧侶の道を選んで勘当された。工房ではダーネルの助手として全般を管理。ダーネルとは、唯一、工房を開く前からのつきあいで、その手の噂もあったが最近はロルジャーカーと仲良し。 ★ロルジャーカー(ロッツ)  ダーネル工房衛兵。盗賊兼弓兵。蛮族出身。行き倒れ寸前のところをダーネルとリズィに救われた。ダーネル以外ではただ一人、外出する権利を持つ。リズィと特に仲良し。 ☆オルフェア=メリシェン(ラクリマ)  ダーネル工房研究員。孤児院出身の類い希なる才能を持つ魔術師。自力による魔法や魔法奥義が使える。気弱で涙もろい。工房では主に完成体の管理、データ収集を担当。アルフレッドソンとは夫婦。 ★アルフレッドソン=モロカーゼ(カイン)  ダーネル工房主任衛兵。もとは上流貴族の嫡子だったが、親殺しの罪を着せられ剣奴に落とされていたのをダーネルに買い取られた。オルフェアに一目惚れし、押しの一手で夫婦となる。 ★ダルフェリル(セリフィア)  ダーネル工房衛兵。下級役人の次男に生まれるも、魔術の才能がないため捨てられ剣奴になる。ある日現れたジルウィンとともに脱走中、ダーネルに救われる。ジルウィンとは工房に入る前から夫婦。 ☆ジルウィン=ミアフーフェア(G)  ダーネル工房研究員。鷹族の獣人。非常に珍しい、魔術師/戦士。運命の人ダルフェリルのサーランド脱走を助け、逃亡生活を続けていたところをダーネルに救われる。工房では、モンスターの能力の研究、強化などを担当。ダルフェリルとは夫婦。 ★アルナハト=ビューブルグ(アルト)  ダーネル工房研究員。新入りで最年少。記憶喪失の少年。気弱で天然系だが才能の一端を見せる。刀身に極薄のルビーが挟まったかたちの、不思議な剣のペンダントをしている。 【PC〜現代〜】 ヴァイオラ‥‥僧侶・女・20才。花は愛でるも、美味なる種は酒の肴に食すべきもの。 ラクリマ‥‥僧侶・女・17才。花は愛でつつ育て採り入れ、有難く実用に供するもの。 G‥‥戦士・女・17才。花は貴重ゆえ、乾燥か薬品漬けにてその姿を留めるべきもの。 セリフィア‥‥戦士・男・17才。花はひたすら愛でるもの。それ以外は認められない。 カイン‥‥戦士・男・15才。花はひとに愛でらる特性を活用し、飯の種にすべきもの。 アルト‥‥魔術師・男・15才。花は愛でるも、その本体の効用を研究し活用するもの。 【NPC〜現代〜】 ロッツ‥‥ストリートキッドあがりの働き者の盗賊。パーティに参入、日がな駆け回る。 レスター(レスタト)‥‥僧侶・男・享年15才。故人にして未だ忘れられざるPCのくびき。実はカインの双子の弟。 ラルキア‥‥セリフィアの弟。ハイブ禍が起きたとき、ラストンの実家に母親と残っていた。 ヘルモーク‥‥セロ村在住の虎族の獣人。年齢不詳(見た目40歳代)。迷宮の案内を生業とする。 キャスリーン婆さん‥‥セロ村在住の老婆。村唯一の薬剤師で、陰の実力者。 1■夜襲  彼と初めて出会ったのは10年前の4月。春だった。  貴族の格式や体面ばかりを気にする家族と反りが合わない彼女を、初めて理解してくれたひとだった。家には、彼女が彼女でいられる場所がなかった。「魔術師」のレールにうんざりしていたところへ、「僧侶」のことを教えてくれたのも彼だった。興味を持ってそれを学習する彼女に家族の風当たりはますます強く、とうとう彼女は飛び出した。二度と家には戻らないと決意して、彼のところへ身を寄せた。彼は快く同居を赦してくれた。  だからではない、それだけではない、ただ、彼の存在は彼女の中で止めようもなく大きくなっていった。  彼は会った当初から苦しんでいた。「もう一人」の影に、そのころから悩んでいた。自分が少しでも助けになれればいいと、少しでも頼ってほしいと、いつも思うのに……。  いつもいつも、彼はやさしくしてくれる。自分の苦しみにかかわらず。  だから、物足りないなどと思ってはいけないの。  ショートランド暦120年。  新年正月に、アルナハトはやってきた。研究所のだれよりも若く、猫耳つきの帽子をかぶった身元不明のこの少年を、ダーネルはよく被験体にした。彼が来てから、ダーネルの研究への没頭ぶりは度を増した。他の研究員たちと食事をともにしないことなど、ごくあたりまえになりつつあった。  それ以外は、何ら変わりばえのしない毎日だった。一時、オルフェアの蜥蜴が行方不明になって---結婚前にアルフレッドソンから贈られた蜥蜴で、たいそう可愛がっていた---大騒ぎしたこともあったが、それすらも穏やかな日々の連なりにすぎなかった。  アルナハトの入所から20日ほど経ったある日、朝食の席からロルジャーカーの姿が消えていた。いつものように、所長の言いつけで買い出しか何かに出かけたんだろうと、所員たちは特に気に留めなかった。いつもと同じことだと思っていた。  ただ一人、リズィだけは違った。彼女は毎日、ロルジャーカーからの連絡がないか、スクロールを開いては確かめた。毎日毎日、祈るような気持ちでひたすらに待った。早くしなければならなかった。一刻も早く。奴を殺すために。  ロルジャーカーは8日ほどして戻ってきた。 「今日はひさびさにおいしいもんを食べられやすよ」  そう言って彼は新鮮な食材を食堂に広げた。最近の工房では、フードクリエイターから出てくるものを食事としていた。飢えることはないが、たまに味気なくてたまらなくなる。こうして生の食材が手に入った次の夕食は、全員が楽しみにするところだった。 「私、手伝いましょうか」  オルフェアが申し出た。彼女は花嫁修業の一環として料理も習い覚えており、この工房では一番料理がうまかった。ロルジャーカーは喜んで申し出を受け入れた。  調理もあらかた終わったころ、ロルジャーカーはオルフェアに「他のみなさんを呼んできてくだせぇ」と頼んだ。オルフェアは素直に他の所員たちを呼びに出ていった。ロルジャーカーはやにわに小瓶を取り出し、中の液体をスープに混ぜた。  夕食は美味だった。満ち足りた時間を一同は享受した。  夕食後、アルナハトがその場で眠り始めた。疲れているのだろうと、ダルフェリルが抱えて彼のベッドに運んでやった。そのうちに他の人間もおしなべて眠気に襲われた。ダルフェリルとジルウィンは早々に二人で部屋に引きこもった。二人とも深い眠りに落ちていった。アルフレッドソンも部屋に入り、先にダウンしてしまったオルフェアの寝顔をしばらく眺めたあとで自分も眠りについた。  リズィも部屋に戻った。部屋にはロルジャーカーからのメモが残されていた。リズィはメモに目を走らせた。 (………今夜)  来るべき瞬間のために、彼女は密やかに事の準備を整えた。短剣に毒を仕込み、袖口に忍ばせると、時をおいて一人で食堂へ向かった。 「この先の洞窟の中にダーネルという貴族の研究所がありやす。そいつは、元々がサーランドの貴族なもんで、結構ため込んでやすぜ。変わり者という噂が立ってた人物なもんでやんすから、訪れる人もほとんどいやせん。狙い目でやんすよ」 「そうか、わかった。ところで、なんでお前がそんなことを知ってるんだ。この辺に研究所があるという情報があったから信じられるが、そうでなかったら疑わしい限りだぞ」 「へい、実のところあっしは、しばらくそこに雇われていたんでやんすがね、何せ扱いが非道いでやんすよ。それで嫌になったってわけで。ま、やめるにしても、何かいただかないと……」 「ほう、おぬしもなかなか悪よのう。上がりの一割で良いか」 「それで十分でやんす。夕食に睡眠薬を混ぜておきやすから、合図をしたら、お願いしやすぜ、旦那」  それは数日前に交わされた取り決めだった。  蛮族たちはこの日、決められた場所にやってきた。すぐに木陰からロルジャーカーが現れ、「よろしくお願いしやすよ」と言った。 「本当に大丈夫なんだろうな?」  長刀を持った若い戦士が念を押すように口を開いた。 「ええ、睡眠薬でみんなしっかり眠ってやす。起こさなきゃ何も危なくありやせん」 「………」 「それに、魔晶宮を壊してしまえば魔法なんか使えやしません。あとは主のダーネルを倒せば他の連中は蜘蛛の子を散らすように逃げていくでしょう。大丈夫でやすよ、魔晶宮についてはちゃんと手はずを整えてありやすから」  一同の中でやや年かさの女性僧侶は、戦士風の青年二人と、若い魔術師の青年とを傍らに呼んだ。 「どうも信用できないね」 「ああ。俺たちをはめるつもりかもしれない」  先ほどとは違うほうの戦士が答えた。  「ただ」と、魔術師が口を開いた。「魔晶宮を壊せば魔法が使えなくなるのは本当だろう。今の都市部には、自力で魔法を使える人間などほとんどいないはずだからな。」 「じゃあ、行くかい?」 「そうだな。俺たちの村のためにも」  彼らは魔法が使えない、市民権のない蛮族であり、自分たちの村の生計を立てるためにこうした襲撃を繰り返していた。 「どのみち、事が終わったらあいつは放逐か、さもなきゃ殺すかだ。村には入れられない」  長刀の戦士が低い声で断言した。彼らの視線の先にいるロルジャーカーは、もう一人の女性僧侶と、女性戦士とを相手に話していた。「よくそんなひどいところにいるな。」「いやぁ、藁にもすがる思いだったんでやすが、掴んでみたら泥縄だったってわけで……でもそれだけなら我慢できたんでやす。あっしには好いたおなごができたんでやすよ。でもそこの所長ってのが、あっしとそのひととの間を引き裂こうとするんで。それでもう我慢ならなくなったってわけで。」「まぁ、おかわいそう。」 「……決まりだね。行って、お宝を手に入れたら、あの男は始末しよう」  リーダー格の女性僧侶は、若者たちを見回してこっそり口にした。それから立ち上がって「出かけるよ」と告げた。  工房へはそこから半刻ほどで到着した。幻影の魔法を通り抜け、通路を通って正面扉の前に立った。ロルジャーカーは、だが、正面扉は使おうとしなかった。側壁にある大きな姿見を指して、「こっちでやんす。鏡に右掌をあてると中に入れるようになってやす」と言った。正面扉は、開けた途端に警報が鳴る仕掛けになっているとのことだった。  ロルジャーカーの案内で、蛮族たちは、モンスターの飼育室や実験室のある側の廊下を通り、北の廊下に出た。 「このへんのどこかに所長の部屋へ行く隠し通路があるはずなんでやすが……」  ロルジャーカーは廊下を見渡しながら言った。女性僧侶はそれを聞いて、 「どこにあるか知らないの?」 「調べたりしたらすぐにばれるでやんすよ。そんな恐ろしいこと、できやせん」 「じゃあ今ならできるでしょ。私たちが見張ってるから、あんたが調べて」  彼女の有無を言わさぬ調子に押されたのか、ロルジャーカーは素直に廊下を調べだした。「ここに隠し扉が」と何か見つけた頃合いに、工房の灯りがすべて消えてしまった。 「どうしたの」  あらためて松明をつけたり灯りを用意しながら、蛮族のリーダーは尋ねた。 「きっとあっしの協力者が魔晶宮を止めたんでやんすよ。前に、ジャイアントアントが魔晶宮にぶつかったときも、こんなふうになりやしたから」  ロルジャーカーはそう説明しながら、見つけたばかりの隠し扉を開けた。リーダーがディテクトマジックの呪文を唱えて中を見たところ、60フィートほど奥に、何かの目鼻と思われるかたちに反応が見られた。ドラゴンのレリーフだった。 「先に行って様子を見て」  蛮族はまたしてもロルジャーカーを試験台にした。ロルジャーカーが隠し扉の先の通路を歩き出すと、奥から炎の波が押し寄せてきた。ロルジャーカーは慌てて入り口まで戻った。 「何だ、今のは」 「ほ、炎みたいでやすね」 「……ところで所長は食事したの? 寝てるの?」  リーダーの女性僧侶は今さら思いついたように彼に尋ねた。 「それは……あっしは夕食の間は警備をしてたんでわかりやせんが、たぶん食べたと思いやすよ」 「わからないの、眠っているかどうか?」 「夜だから、寝てるでしょう」 「………」  どうも危ないな、と、蛮族たちは思った。自分たちの侵入もすでにばれている公算が高い。しかし今さら後の祭りだった。ばれているならなおさら、相手を倒す以外に生きて帰る道はないのだ。先に進むしかないと判断し、蛮族たちは奥のレリーフまで、炎の洗礼を受けながら走り抜けた。ドラゴンの口から続くスロープに、次々と飛び込んでいった。  たどりついた先は、ガラス張りの部屋だった。蛮族たちは7人で来ていたのだが、そっくりな間取りの部屋が上下にあり、スロープを降りる途中で3人と4人のグループに別れてしまっていた。  そのガラス張りの部屋に入った途端、初老の男の声が降ってきた。 「よくここまで来た。どうやら内部に手引きした者がいるようだな……まぁいい。お前たちの力を試させてもらおう。せいぜい楽しませてくれ」  言い終わると同時に、下の部屋に2体のモンスターが現れた。キメラとスカーミールだった。  下の部屋に魔術師が振り分けられていたのは、不幸中の幸いだった。4人は数十秒で2体のモンスターを葬った。それから、スロープと反対側にある通路へ進んだ。  通路はすぐにT字路になり、右か左か選ばなければならなかった。4人は左を選んだ。少ししてまた左に曲がる角があり、その先の突き当たりに重厚な木製の扉があった。扉には「宝物庫」と書かれていた。4人はその片開きの扉を開けた。  何かが、意識に干渉してきたようだった。  女戦士と魔術師は、部屋の中に、自分が思い描いていたのとそっくりの財宝の山を見つけた。 「お宝だ」 「金銀がこんなに」  二人は憑かれたように部屋の中へ入っていってしまった。  長刀使いの戦士は、彼らが何らかの意識支配を受けていることを看破した。「バカだな、あいつら……」と、彼が思った瞬間。  再び何かが干渉の波を寄越した。  長刀使いは、部屋の中に財宝と、それを守るガーディアンが2体いるのを見た。あいつらを倒せば財宝は俺のものだ、そう思った。内部へ突撃をかけ、手前の1体に斬りつけた。  切りつけられた女戦士は振り向いて、そこにガーディアンが立っているのを見た。こいつを倒せば財宝が手に入ると思い、戦闘に入った。  三たび、干渉があった。  戸口に待機していた盗賊は、うまいこと干渉の波をすべて乗り越えた。彼の目には、がらんどうの部屋の奥で何かにうっとりと目を寄せる魔術師の姿、それからいきなり同士討ちを始めた戦士たちの真実の様子が映っていた。 (まぁ、10分もすりゃみんな目を覚ますだろ)  盗賊はそう判断して、扉を閉めた。  長刀使いは、女戦士と死闘を繰り広げた挙句、勝利を収めた。 (まずは1体……)  彼の目は、部屋の奥にいるガーディアン---仲間である魔術師の姿には見えなかった---に注がれた。すぐさま移動し、背後から斬りつけた。不毛な争いが、今度は魔術師との間で行われた。魔術師は長刀使いの戦士をさっさとウェブで絡めとり、「うっとうしいなぁ〜」と言いながらマジックミサイルで止めを刺した。  10分経って、盗賊が扉を開けると、中には女戦士の死体と、長刀使いの戦士の死体が転がっていた。奥にいる魔術師がふっと振り向いた。目が異様だった。自分に対する敵意を感じて、盗賊は再び扉を閉めると、その場を離れた。  魔術師は、振り向いた先にガーディアンの姿を認めた。だが扉が閉じると同時にそれは掻き消えた---ように思ったが、手近な宝箱がいきなりガーディアンに変形したように見えた。 (ポリマーか……!)  実際には彼の前には空気しかなかったのだが、幻のガーディアンと一騎打ちをした魔術師は、幻影の中で死んでいった。部屋の中には3つの死体が転がるばかりだった。  上の階に降り立った3人、僧侶2名と両手剣使いの戦士とは、T字路を左でなく右に曲がった。廊下に出る前に、リーダーの女性僧侶はディテクトイビルとディテクトマジックとを唱えていた。それで、曲がり角から先を覗き見た瞬間、曲がってすぐの右側の壁に、何かの仕掛けがあることに気づいた。ディテクトイビルも反応するところから、どうやらそこにはモンスターが隠されているらしい。  若いほうの女性僧侶が自分にプロテクションフロムイビルをかけ、一歩前に進んだ。いきなり何かが彼女を襲った。インヴィジヴルストーカーだった。彼女の背後に構えていた戦士が、あとは引き受けた。  戦闘はやや長引いたが、見えない敵を倒した3人は突き当たりの扉まで進んだ。扉にはプレートがあり、「ダーネル=リッシュオット」と書かれていた。どうやらここが「所長」とやらの部屋らしかった。  そのとき、轟音とともに、工房全体が揺らいだ。揺らぎ、無気味な地響きを立てながら、それは急激に傾斜したようだった。壁や床にしがみつかなければ、そのまま下方---先ほど曲がった角---に転がり落ちてゆきそうだった。 (ムーブアース〔大地を動かす〕の呪文か…!)  リーダーの女性僧侶は扉の向こうにいる住人の力を知って、冷たい汗が背筋を流れ落ちるのを感じた。それでも、この先の主を倒さなければ、だれも帰れないのだ。  3人は急な傾きのある通路にしっかり立って並び直した。戦士が扉に手をかけ、開いた。  正面奥にマホガニー製の立派な机があり、その向こうに初老の男が立っていた。ぼそぼそと、「盗賊はイエローモールドが食い尽くしたか……下は終わったな…」などと呟いている。  下は終わった、とは、下の階に入り込んだ仲間が全滅させられたということに相違なかった。静かな怒りを湛えて自分を見る蛮族たちに、初老の男は振り返った。 「待たせたな。ここまで来るとは大したものだ。だがそれももう終わりにしてもらおう」  若い僧侶がサイレンスの呪文を唱え、リーダーと戦士とは攻撃のために移動した。サイレンスがかかっているにもかかわらず、ダーネルは平気で呪文を唱えた。ソード〔魔剣〕の呪文だ。部屋の中に光り輝く魔法の剣が現れ、戦士に向かって攻撃を開始した。  リーダーは自身の武器にストライキング〔打撃〕の呪文をかけ、戦士を支援する準備を整えた。戦士はダーネルを攻撃したが、なかなか当たらなかった。そして当たったと思った瞬間には、目の前のダーネルの姿は消えていた。彼の本体が対角線上の部屋の隅に現れた。蛮族たちが入ってくるより前に、プロジェクテッドイメージ〔変わり身を作る〕の呪文を行使していたのだ。  リーダーがソードを相手にしているうちに、ダーネルは戦士のほうから片づけることに決めたらしく、ディスインテグレイト〔分解〕の呪文を唱えた。一瞬ののちに、戦士の巨体は塵となって消えた。若い僧侶が恐怖で悲鳴をあげた。ダーネルはその逃走を阻むように、部屋の扉にウィザードロック〔魔法の鍵〕をかけた。 「さあ、もう少し楽しませてもらうぞ」  高速詠唱の奥義を用いて、スタチュー〔像化〕の呪文で自ら石像と化すや、自分以外の範囲にイクスプローシブクラウド〔爆雲〕を発動させた。この呪文で発生する雲は一種の毒雲で、中には閃光が充満している。閃光が引き起こす小爆発により、雲の中にいる者はダメージを受け続けなければならなかった。  残った僧侶は、二人とも自分の死を覚悟した。リーダーは最後まで、何度もスタチューと化したダーネルに攻撃を加えた。だがそれも1分に満たない間のことだった。若い僧侶が倒れ、リーダーもついに膝を屈した。侵入者たちは全滅した。 2■異変  階上と、階下と、二手に別れてしまったヴァイオラたちは、ちょっとの間考え込んだ。ヴァイオラは正面のT字路を様子見に行った。後ろからラクリマが声をかけた。 「どっちに行きましょう?」 「まぁ、正面の壁を調べたあとは、右手の法則に従うよ」  ヴァイオラはそう言ってセリフィアとラクリマを促した。  階上の声が階下にも届いて、話ができるとわかったのでカインは上に向かって大声で尋ねた。 「どっちへ行くんだ?」 「正面に隠し扉がないか調べてから、右に行くそうです」 「わかった。俺たちも右から行く」  ラクリマにそう告げて、カインはあとの3人とともにT字路に向かった。  右に曲がって少し行くと曲がり角があり、そこを再び右に折れて進むと突き当たりに部屋があった。「ダーネル=リッシュオット」と書かれた扉を、カインは開いた。  部屋の中には1体の白骨死体があった。レザーアーマーを着用していたらしいところから、盗賊だったのだろう。  他にめぼしいものが何もなかったので、カインたちはT字路から左側に向かうことにした。先ほどの部屋と線対称に配置された今度の部屋の扉には、「宝物庫」というプレートが下がっていた。中を覗くと3体分の白骨が床に散らばっていた。鎧の様子から、戦士2名と、魔術師1名のようだった。他には何もなく、Gは死体を漁りだした。 (この迷宮に入ればお宝がたくさんあるって話だったのに)  Gはヘルモークに対してちょっとむかつきながら、1体ずつあらためていった。売るなり使うなりできそうなものはほとんどなかった。ただ、死体のそばに転がる1本の剣が、どうやら魔法を帯びているらしかった。剣にはどす黒い血の汚れがついていた。Gはアルトに頼んで小魔法(キャントリップ)で剣をきれいにしてもらおうとした。だが小魔法は効かなかった。  アルトは不思議に思い、剣をよくよく見た。が、+2の威力を持つ剣であるという以外に、特異な点は見あたらなかった。  Gは剣を腰に差した。 (これでサラの旦那にノーマルソード+1を返せる)  そう思って、大いに喜んだ。  他には何もないようだった。 「上へ行かないか」  カインは3人を引き連れて、スロープの入り口まで戻った。まずはロッツに頼んでロープを身体に結わえ、試しにスロープを登ってもらった。少しして彼がスロープの中から叫ぶ声が聞こえた。 「上へ行く分岐がこんなところにありやすぜ」  ロープを伝って、G、アルト、カインは皆、上の階へたどり着いた。  これより前、ヴァイオラたち3人は、T字路突き当たりの壁を調べたが、隠し扉などは見つけられなかった。右側に進んで行くと、ちょうど下の階と同じ間取りで、「ダーネル=リッシュオット」とプレートのある部屋にやってきた。  部屋の中ではダーネルの亡霊が待っていた。 「我が望みを明かしてもらえたかな」  亡霊は丁寧に尋ねてきた。 「まだだ」 と、セリフィアが答えた。 「あんた、本当に覚えていないのか?」  ダーネルの亡霊は少し哀しそうな顔をしたようだった。首を横に振って、「本当にわからないのだ」と淋しく呟いた。  背後からドヤドヤと人の来る音がして、振り向くとカインたちが到着したところだった。 「あれ、どうしたの? どこから登ってきたの?」 「スロープを登ってきた。途中で分岐点があったぞ」 「あっしとしたことが、あんな簡単な仕掛けに気づかないなんて……」  一同が言葉を交わす背後で、息をのむ音がした。 「その剣は…!!」  Gが腰に差した剣を見るなり、ダーネルの亡霊は叫んだ。 「その剣だ。その剣で私は殺されたのだ」  Gはいやぁな顔をした。ダーネルの亡霊はそれに構わずに続けた。 「思い出した……。私は、私のせいで大切な仲間を失ってしまったのだ。自責の念でこの地に縛られ、留まっていたのだ」 「では、どうすればいいんです」  ヴァイオラの問いに、ダーネルの亡霊はGに目を向けて答えた。 「その剣でもう一度私を殺してほしい」  Gはますますいやぁな顔をした。 「他のでやったらだめなのかー?」 「頼む。その剣で私を斬ってくれ」  Gは泣きそうな顔をしながらダーネルの亡霊に問いかけた。 「お前、ここでお前を斬ったらお宝はどうなるんだ。ナチュラルなゴーストは宝物をくれるんだろ、成仏したら」 「ニュートラルだろ!」  周りから数名のツッコミが入ったが、雰囲気は明るくならなかった。 「財宝か。多くあるわけではないが、好きに持っていけばいいだろう」 「好きに、って、どこにあるんだ」 「宝物庫にある」 「本当に手に入るのか?」 「手に入れるがいい」 「扉に変な呪文とかかかってないだろうな」 「いや……だがコマンドワードがある」 「教えろ」 「思い出せない」 「じゃあ結局手に入らないじゃないか」 「扉は君たちの力でなんとかしてくれ。中にあるものはすべて取ってくれて構わない」  Gとダーネルの押し問答を見ていたヴァイオラは、「ジーさん、送ってあげたら」と口を挟んだ。Gは情けない顔でヴァイオラを見た。どうにも斬った途端にせっかく手に入れたこの魔法の剣が消えてなくなりそうで、悲しかった。それに何だかイヤで溜まらなかった。  だが、とうとう彼女も決心した。投げやりな調子で、 「斬ればいいんだろ、え〜い」 と、亡霊に斬りつけた。  その瞬間、その剣は---Gが恐れたとおり---役目を終えたかのように、彼女の手の中で朽ち果てた。  ホワイトアウト。  その場の全員が、時空を超えて夢を見た。  何かの異常を感じて、アルフレッドソンは目を覚ました。瞬間、フッと闇が濃くなった。廊下の常夜灯が消えたのではないか。不審に思って、彼は寝台に起きあがった。軽く身支度を済ませてから、眠っているオルフェアを起こした。 「オルフェアさん、起きてください」 「ん……なに……?」 「何か様子が変だ」  オルフェアは眠い目をこすりながら起きて、寒さ避けに上からローブを被った。袖口にするりと蜥蜴が入り込んだが、そのままにしておいた。 「動力が……切れてる?」  二人が扉を開けようとしても、扉はまるで動かなかった。以前、この地域の魔晶宮がやられて、魔力の供給が停止したときと同じ状態だった。 (でもなぜ……あのあと、専用の魔晶宮を工房の中に設置したのに……)  オルフェアは訝しく思いながら、小魔法(キャントリップ)で扉の重量を軽くした。あとはアルフレッドソンが腕力で開けた。  廊下は真っ暗だった。 「あ、灯りを……」  オルフェアは手近にあったアロマキャンドルを探し当て、再び小魔法(キャントリップ)を使って灯を点した。呪文は使わなかった。次に何が起こるかわからないからだ。  ぼんやりとした灯りを手に、二人は足音を忍ばせて廊下に出た。と、奥のほうで、扉がシュンと音を立ててスムーズに開いたように感じられた。二人は顔を見合わせた。それからアルフレッドソンが先になって、奥の、アルナハトの部屋あたりに向かった。  そのアルナハトは少し前に目覚め、やはり周りがいつもより暗いのに気づいた。何とはなしに廊下に出て様子を見ようと、扉の前に立った。だが、扉はウンともスンとも言わなかった。 (おかしいな……)  いつもだったらすぐ開くのに、と、思いながら彼はそれに手を触れた、その瞬間、ペンダントが光ってするりと扉が開いた。アルフレッドソンたちが聞いたのはこの音だった。アルナハトは呪文を使って灯りを作った。 「アルナハト!?」  アルフレッドソンもオルフェアも驚いて声をあげた。軽くしたあとでも、大の男のアルフレッドソンが幾ばくかかかってやっと開く重い扉を、少年のアルナハトがどうやって開けたのか、理解に苦しんだ。 「アルナハト、お前、どうやって出てきたんだ?」 「え?」 「今、魔力が切れているんだ。扉が動かなかっただろう?」 「ああ、そうだったんですか。でも、ボクが触ったら動きましたよ?」  アルフレッドソンが向こうを向いて話をしているとき、オルフェアは食堂の扉がギチギチと音を立てるのを聞いた。咄嗟にアルフレッドソンの服の端を掴んだ。 「オルフェアさん?」  アルフレッドソンが振り返ると、食堂の扉が2センチほど開いたところで、そこから女の白い指がぬっと突き出された。指はさらに扉を開けようとしているが、なかなか動かせないでいた。 「アルナハト、お前、開けてやれ」  指の主はたぶんリズィだろうと思って、アルフレッドソンは言った。アルナハトは「はあい」と返事して食堂の戸の前に立ち、それに触れた。  彼の胸のペンダントが再び光り、扉はするりと開いた。その向こうに、リズィの姿が浮かび上がった。 「どうしたの!? 今のは何!?」  リズィも目を丸くして驚いていた。 「アルナハトは開けられるらしい」  実際に見ないとわからないだろうな、と思いながら、アルフレッドソンは答えた。それから、 「何か異常が起きているみたいなんだが」 「ああ……どうやら蛮族が侵入したらしいの」  リズィは少し顔をしかめて言った。オルフェアは何か、引っかかるものを感じた。 「警備室で確かめてからこっちに来たら、閉じこめられてね」 「ロルジャーカーは? 今晩の夜警はあいつだろう?」 「…いなかった」 「そうか……所長が心配だな」  リズィは肯いた。だが、この中のだれもが、所長室への行き方を知らなかった。オルフェアがリズィに尋ねた。 「あの……魔晶宮は…?」 「壊されてたよ」 「私、見てきます」  オルフェアはそう言って、食堂の中に入っていった。「オルフェアさん、危ないですよ」と、後ろからアルフレッドソンがついて入った。  二人が食堂に入ってしまったのを見届けてから、リズィはアルナハトに声をかけた。 「向こうの通路に、所長のところへ行ける扉がないかどうか調べたいんだけど、つきあってくれる」 「いいですよ」  アルナハトは軽く請け合った。リズィは彼を連れて、北側の廊下へ赴いた。「このどこかに何か仕掛けがあると思うんだけど……。」「端から探してみましょう。」二人は手前から、つまり東から西へ向かって廊下の壁を調べだした。  オルフェアは食堂で真っ直ぐに魔晶宮のある場所へ向かった。キャンドルの灯りだけで心許なかったが、魔晶宮がその弱い部分を集中的に破壊されているのを確認した。こんな効率的な壊し方は、魔晶宮の構造を少しなりと知っている人間でなければできない。蛮族の仕業とはとても思えなかった。それに、なぜさっき彼女は食堂から出てきたのだろう……? 「オルフェアさん? 何かありましたか?」 「フレッド……」  オルフェアはアルフレッドソンのほうを向いて、リズィに対する疑いを洩らした。 「魔晶宮をリズィが……? いったい何のために?」 「わからない……わからないけど、何かおかしいわ」  オルフェアはそう言って口を噤んだ。彼女は恐ろしい疑惑を振り払えずにいた。なぜリズィが魔晶宮を壊したのか……彼女がダーネルを裏切ることはあり得ない……蛮族が侵入した(侵入させた?)というのが本当だとしたら、それはダーネルを殺すためではなく……蛮族を殺しの実験台にするため? (蛮族だけなんだろうか)  オルフェアは戦慄した。彼女には以前から、自分たちが何かのサンプルとして集められたように感じられてならなかった。今夜がその日なのではないか? (私たちも、実験のために皆殺しにされるのでは……?)  もしもそうなら……ダーネル相手ではとても助からない……。  オルフェアが暗い思いを紡いでいる横で、アルフレッドソンが口を開いた。 「……よし。まずはダルダルとジルジルの二人を起こそう。あの二人にも協力してもらうんだ」  アルフレッドソンはオルフェアの手を引いて廊下に戻った。リズィとアルナハトの姿がなかった。北側から灯りが洩れているのを見つけて、アルフレッドソンは「おい、いったん集まらないか! 別れているのは危険だろう! アルナハト、ダルダルの部屋の戸を開けてくれ!」と、北に向かって声をあげた。  丁度そのとき、アルナハトは隠し扉を見つけていた。リズィに「ここに何かあります」と言いながら、彼は奇妙な感覚に囚われた。  ---開けないほうがいい……。  次の瞬間、アルフレッドソンの声が届いて、アルナハトはリズィに「いったんみんなのところに戻りましょうか」と言った。 「ジルウィンさん、ジルウィンさん! 起きてください!」  オルフェアはジルウィンとダルフェリルの部屋の扉を叩いた。この部屋の扉は、コマンドワードがわからなければ開かないようになっているため、腕力やアルナハトの不思議な力だけではどうにもならない。だが、中の住人を呼ぶ彼女の声も手の力も弱く、届いているのか定かでなかった。  ジルウィンはまどろみの中にいた。だれかが扉を叩く音がする……だれが……扉を……。扉……その……その扉……その扉を開けてはいけない!!  彼女はパッチリと目を覚ました。廊下でオルフェアが何やら叫んでいる。続けてアルフレッドソンの声が朗々と響いた。 「ダルダル、いい加減に起きろ!」  アルフレッドソンは中で物音がしたのを聞きつけ、 「俺は着替えてくるから、アルナハト、あとは頼む」 と言って、オルフェアを伴い、いったん自分の部屋に戻った。 (ダルダルさんのことをダルダルと呼んでいいのは私だけなのに)  ジルウィンは不服に思ったが、その呼び名を口にしてばらしてしまったのは他ならぬ自分であった。それに、アルフレッドソンはダルダルさんの友人らしいし、と、仕方なく思いながら、彼女は隣のダルフェリルを起こした。ダルフェリルが「開くな」とコマンドワードを唱えると扉が開き、廊下にアルナハトとリズィがいるのが見えた。 「どうした---」  最後まで言う前に、それは起こった。凄まじい地響きとともに、床面が突如として傾いだ。いきなり天地がひっくり返ったようだった。 「なっ、なんだ!!」  リズィたちは扉の縁などにつかまって、なんとか転倒を免れた。  部屋でアルフレッドソンの鎧の着付けを手伝っていたオルフェアは、つかまるところがなくてバランスを失った。 「危ない!」  アルフレッドソンが咄嗟に手を伸べてくれなければ、壁に頭をぶつけるところだった。 「大丈夫ですか、オルフェアさん」 「え、ええ……」  尋常ではない、と、彼女は思った。いや、全員が理解していた。これはおそらくムーブアースの呪文。そしてそんな呪文を使えるのは……所長……。けれど、いったい、何故?  ジルウィンは、かねてから、いつでも飛び出せるようにと用意してあった手荷物を引っ張り出した。何かが彼女の中で警鐘を鳴らし続けていた。 「俺たちは入り口を見に行ってくる」  ダルフェリルは他の人間にそう告げた。ジルウィンと心がつながっている彼には、ジルウィンの危機感がよくわかっていた。自分はその彼女の能力に助けられたのだ。今、逃げ出さなければ、生きてここを出られないかもしれない。だから出入り口が無事なら、そのまま二人でここから逃げ出すつもりだった。ジルウィンももちろん、心で応と返事を返していた。 「フレッド…次に動いたら、私たち、生き埋めに……」  オルフェアが怯えた声でアルフレッドソンに囁いた。アルフレッドソンは、 「そうだな。先に出入り口を確かめよう。リズィ、アルナハト、行こう」 「みんなは出て。私は所長を捜しに行く」  リズィはきっぱりと言って、踵を返そうとした。 「リズィ!」  ジルウィンは彼女を呼び止めた。 「夢で見たんだが、扉は開けちゃだめだ。開けたらだめなんだ。それだけ覚えててくれ」  リズィが困惑した表情で振り返るのが見えた。 「ジルウィンの言うことは正しい」  ダルフェリルが言い添えたが、ジルウィンとリンクしているわけでもない他の者にはちんぷんかんぷんだった。 「開けない……って、どうすればいいの?」  リズィはジルウィンに尋ねた。 「だから、開けたらいけないんだ。とにかく扉は開けたらだめだ」 「どんな扉ですか?」  アルナハトが口を挟んだ。ジルウィンは「見たことがない扉だった。隠し扉だろう」と答えた。アルナハトとリズィは思わず顔を見合わせた。「さっきの、隠し扉……?」 「……みんなは出て」  リズィはもう一度そう言って、踵を返そうとした。と、アルフレッドソンがそばに寄ってきて、小声で言った。 「リズィ、あんたらしくないぞ。ここであんたが向こうへ行ってしまえば、あの二人は逃げちまうだろう。このあと何が起こるのか知らんが、あの二人を戦力に取っておくべきじゃないのか。ここはいったん、入り口の確認だけ先にしておいたらどうだ」  リズィは暗い目をあげて目の前の男を見た。ようやく承知して、アルフレッドソンを先頭に、全員で入り口の様子を見に行こうと歩き出した。そのとき、行く手にダーネルが現れた。衣服は破れ、ところどころから血を流していた。 3■安らかに眠れ (ここは…どこだ……)  男は意識を取り戻した。しのつく雨が顔を濡らした。 (…あ、め…雨……雨が降っているのか……。馬車……あそこに、扉が開いた馬車が横倒しになっているな。崖崩れにあったか……。あそこから、放り出されたのか、私は?)  突如、言いようのない不安が押し寄せた。 (………私? 私はだれなのだ)  …思い出せない、何も。何もかも。手繰るべき糸すら見えず、男はわなないた。 (私は、何処の! だれなのだ!!)  少し落ち着いて身の回りを確かめる。着ているローブに名前はない。が、足下に落ちている外套には『ダーネル=リッシュオット』という名が入っていた。かなり上質の、貴族が用いる外套だ。 (…ダーネル=リッシュオット……私の名か? 身なりからすると貴族のようだが……まあ良い。いずれ思い出すであろう。それよりもまず、この状況を脱する手段を考えなければ……)  それが今から15年前の、彼の、ダーネル=リッシュオットとしての始まりだった。 「所長! ご無事で!」  リズィが叫んだ。ダーネルはそれには答えず、口を開いて言った。 「ついに本性をあらわしだしたな、アルナハト……いや、彼の中に眠るもう一人よ」 「なっ、何のことですか」  アルナハトは吃驚して聞き返した。 「残念なことに、この中に内通者がいる。奴はあの男に操られて、邪悪なる意志のもとに私を殺す手伝いをした。蛮族を手引きしたのだ。侵入者どもはとっくに片づけたが……今後もこういうことが起こるだろう。中にいる邪悪なる者は目覚めてしまったのだ」  ダーネルがいったい何を言いだしたのか、だれも理解できなかった。  狼狽えるアルナハトの後ろで、リズィはディテクトイビルとディテクトマジックの呪文を唱えた。ディテクトイビルには……ダーネルが反応した。だがこれについては彼女は口を噤んだ。ディテクトマジックのほうの効果が妙だった。アルナハトが全身光って見えたのだ。 「あっ、あなた、何なの!? 全身、魔法がかってるなんて、いったい何!? 本当に人間!?」  リズィは叫んだ。 「何のことですか。ボクには全然わかりません」  アルナハトは泣きそうな声を出した。  アルフレッドソンはダーネルに尋ねた。 「……手引きしたのは、ロルジャーカーか?」  ダーネルは肯いた。悲しそうな顔で、  「彼はもともと蛮族だ。魔法に対する抵抗が弱く、目をつけられた。彼自身のせいではない。その男に」と言いながらアルナハトを指して「操られてしまったのだ。」  皆、一斉にアルナハトを振り向いた。アルナハトは困り切って言った。 「ボ、ボク、そんなことをした覚えはありません」 「それはそうだろう、お前にはわかるまい。邪悪なのはお前の中にいるもう一人なのだから。この1ヶ月、その邪悪なる者を抑えるための研究をしてきた。だがもう滅ぼすしかない。邪悪なる者の意志は、今やお前の知らぬうちにも流れ出しているのだ」 「そ、そんな……」 「かわいそうだが、死んでくれ」  ダーネルはそう言った。それから、 「彼は魔法で倒すことができない。君たちが殺してやってくれ」 と、アルフレッドソンたちに向かって頼んできた。  ダーネルの言葉を聞きながら、ジルウィンは心の中でダルフェリルと逃げる算段をしていた。どう考えてもこの状況は危うい。ダーネルもアルナハトも放って、今すぐ逃げなければ………  そこは工房の外。地面には肉片と血の痕。ダルフェリルの無惨な死に顔。時間を巻き戻すように、自分たちを撃ち貫いた隕石の数々が、身体から抜けて天空へ戻っていく。轟音。逃げ出せたね、と、喜び合った二人。工房の入り口を出たところ。目の前のダーネルの脇を走り抜けて…… (これは……未来視か!)  めくるめくヴィジョンが彼女を通り過ぎた。時間が逆順だったが、今のはダーネルを放って逃げ出した場合の未来らしい。落ち着け。落ち着くんだ。生き残る道が何かあるはずだ。  ジルウィンは、次に、ダーネルを先に殺す場合を思い浮かべてみた。  ここは工房の中。不敵に笑うダーネルの手には一本の剣。足下には累々たる屍。ファイアーボールの炸裂。死体となってから立ち上がるダーネル。ダルフェリルが彼にうちかかり、一撃で止めを刺した。 (だめだ……!)  冷や汗が背を伝った。彼女は心の中でダルフェリルに詫びた。こんなところに長居させてしまって済まない、と。ヴィジョンをも共有しているダルフェリルは、ジルウィンを慰めた。 (諦めるな。きっと方法があるはずだ)  脈絡なく、ジルウィンは思い出した。『持たざる者』と呼ばれる魔術師のこと。呪われた姿なき者、死ぬことのできない人間の話……。ダーネルがそうなのだ。そうわかった刹那、「剣が鍵だ」と思いついたようだった。彼女自身が思ったのか、ダルフェリルが考えたのか、二人共にだれの声かわからなかったが、着想自体は信じられるように思った。  そういえば、今までのヴィジョンではなぜかアルナハトがいなかった。アルナハトを殺すとどうなるのか……  工房の中には邪悪な瞳のダーネル。その手には剣。足下には累々たる屍。ファイアーボールの炸裂。皆を押しのけて剣を握る歓喜の表情のダーネル。アルナハトの死体が剣に変化する。ダルフェリルたちがアルナハトを斬り殺す。アルナハトの恐怖に見開かれた目…… (剣になる!?)  ジルウィンはもう一度、ヴィジョンを視ようとした。あの剣……あの剣をダーネルに取られる前に取れば……?  ヴィジョンは告げた。その剣で殺されたダーネルは、その場では復活ができなかった。 (これしかない)  ジルウィンとダルフェリルは覚悟を決めた。 「アルナハト、全員を生かすために一度死んでくれ」  ジルウィンは冷ややかに言い放った。アルナハトが驚愕に目を見開いた。 「決心してくれたか。頼んだぞ」  ダーネルは済まなさそうに言った。本心から済まないと思っているように見えて、それが本心でないことは二人にはわかっていた。だが彼がうわべを取り繕うためにヘイスト〔加速〕の呪文をかけてくれたのは有難いことだった。 「どっ、どういうことですか」  アルナハトは混乱しながら必死で考えた。この人たちはボクを殺そうとしている! ボクは何も悪いことをしてないのに! 「言っただろう。みんなを生かすために一度死んでくれ。リズィだってわかってるだろ?」  いきなり話を振られて、リズィは「何をですか」と聞き返した。 (ダーネルを殺すために、アルナハトを剣にする必要があるんだ!)  ジルウィンは叫びたかったが、ダーネルがいる前でそんなことは口にできなかった。  前方にいたアルフレッドソンは、先ほどから何かしら違和感を覚えていた。彼はもう一度ダーネルを見た。ダーネルは実に残念そうにアルナハトを見つめていた。が、その中に演技が含まれていることに、アルフレッドソンは気づいた。彼はダーネルから目をそらすと、後方を振り返って呟いた。 「……どういうことなんだ」  アルフレッドソンの様子に気づいたダルフェリルは、「わかってるだろ」と言って、真の敵を目でちらりと指し示した。  ダルフェリルはもどかしかった。自分はジルウィンと心がリンクしているから彼女の言いたいことがわかる。だが他の人間はそうではない。心と心で会話するなど無理な話だ。かといってダーネルがいる前ではうかつなことも言えず、せめて勘のいいアルフレッドソンが気づいてくれるようにと、祈るような気持ちで彼を見た。 「……オルフェアさん、こっちへ」  アルフレッドソンは、自分の真後ろにいたオルフェアを少し壁寄りに移動させた。ダルフェリルにはわかった。彼は、ダーネルによるライトニングボルトを警戒して、オルフェアを域外に移動させようとしたのだ。案の定、アルフレッドソンは自分も少しだけ身体をずらして、ダーネルとアルナハトの両方からオルフェアを守れる位置に移ろうとした。が、その前に、 「ボ、ボクは…死にたくないっ!!」  後ろでアルナハトの悲鳴が迸った、と思うや、4人---ジルウィン、ダルフェリル、オルフェア、アルフレッドソン---の頭上から白い粘ついた繊維の網が落ちてきた。ジルウィンとダルフェリルはアルナハトのいる後方へ、アルフレッドソンはダーネルのいる前方へ素早く足を滑らせ、網の範囲外へ難を逃れた。 「あ、熱っ!」  ウェブにかかったオルフェアの手にはアロマキャンドルがあった。火はすぐに直近の繊維に燃え移り、蜘蛛の網ごと彼女の手を焼いた。オルフェアはたまらず、キャンドルを落とした。炎はあっという間に広がった。 「い、いやあああ!」 「オルフェア!!」  アルフレッドソンは自分の手が燃えるのも構わず、オルフェアを蜘蛛の網、炎の海から引っ張り出し、火を払った。 「あ、あ、ごめんなさい」  オルフェアはアルフレッドソンの腕に涙をこぼした。それを見て、アルフレッドソンはアルナハトを助けてやりたいという情を捨て去った。  それはジルウィンもダルフェリルも同じことだった。口では「死んでくれ」と言いながら、どうしても後ろめたさを感じずにはいられなかった二人だが、今、お互いに一番大切な人間に刃を向けられたことで、アルナハトに対する怒りを爆発させた。ダルフェリルは大剣を振りかぶった。 「悪く思うなっ!」 「ひっ!!」  瞬間、ダルフェリルの目に火の粉が飛んできた。「チッ!」彼の一撃はアルナハトに避けられた。 「なぜ彼を殺す必要が!」  最後方でリズィが叫んだ。リズィからすれば、彼らの振る舞いは「子どものなぶり殺し」にしか見えなかった。だが、ジルウィンは彼女を振り向いて言った。 「ダーネル卿を殺せる剣になるからだ」  今やダーネルとの間には炎が横たわり、彼女が何を言おうとダーネルに聞かれる心配はなかった。  リズィはハッとした顔をした。信じられないことに、即座に彼女はホールドパーソンの呪文を唱えだした。彼女も---彼女こそわかっていたのだ。目の前にいるダーネルがもはや彼女の「所長」ではないことを。 (みんな……みんな、ボクを殺そうとしている!)  アルナハトは恐怖した。 (ちくしょう!!)  ホールドパーソンは跳ね返せたようだった。だが、次の奴が待っている。 「ダルダルさんを殺そうとする奴は許さない」  ジルウィンが斬りつけてきた。今度は避けられなかった。 (ボクは……ボクはだれも殺そうとなんか……。ちくしょう、このままやられてたまるか)  アルナハトはマジックミサイルの呪文を唱えた。ジルウィンに光の矢が突き刺さった。 「ジルウィン!!」  ダルフェリルは叫ぶなり、憤怒の形相でアルナハトに打ちかかった。 「うわあああああ!!」  アルナハトの身体がぱっくりと赤い口を開けた。もう終わりだ。気が遠くなってゆく。だが、最後の力を振り絞って、彼は倒れるのを堪えた。  同じ時に、前方ではアルフレッドソンが迷っていた。ダーネルを、攻撃するかどうか。ダーネルは確かに怪しい。だが、なぜダルフェリルがああもはっきり彼を敵と見なすのか、その根拠がアルフレッドソンにはわからなかった。 「フレッド…?」  オルフェアの声がして、彼は意識を眼前に戻した。まずは彼女を避難させなければ。もし、ダーネルが敵であるなら……気取られてはならない。  アルフレッドソンは常のように朗らかな声でダーネルに話しかけた。 「ダーネル卿、オルフェアさんをそちらに避難させたいんですが、よろしいですか」 「ああ、構わんよ」  そう言ったダーネルの表情に、アルフレッドソンは先ほどと同じ欺瞞が浮かぶのを見たような気がした。彼は決心した。 「向こうへ」  手早く、彼女をダーネルの後ろへ行かせた。それから彼はあとを追うようにして走り寄り、オルフェアをもう少しダーネルから引き離しながら、 「大丈夫ですか、オルフェアさん」  振り向きざま、ダーネルに長刀を振り下ろした。 「きゃあああ! フレッド!! な、何を!!」 「…き……き、さま……」  オルフェアの悲鳴と、ダーネルが床に頽れるのとが同時だった。床に伏したダーネルは、手足を痙攣させたあと、動かなくなった。  オルフェアの悲鳴がかすかに後方に伝わった。ダルフェリルが向こうを見やろうとしたとき、アルフレッドソンの声が聞こえた。 「ダルダル! これでいいのか!!」 「ダーネルを倒したらしい」  ダルフェリルはジルウィンに言った。 「あ、リズィ、ごめん。殺っちゃった」  アルフレッドソンの脳天気な声がリズィにも届いた。 「そのまま復活しないように抑えとけ!!」  ジルウィンは叫んだ。それから振り向いて言った。「リズィ、止めを刺せ。」  リズィにはジルウィンの考えがわかった。奴が復活しないうちにアルナハトに止めを刺して『剣』を手に入れ、確実に封じたいのだろう。だが今のリズィには武器も、攻撃用の呪文もなかった。あるのは、この夜が始まる前に袖口に忍ばせておいた短剣だけ。そして、この短剣は「奴」を殺すためのもの。アルナハトなんかを殺すためのものではなかった。 「……私は彼のために自分の生き方を捨てる気はない」  リズィがそう答えるや、「お前の生き方のために死ぬ気はない」と言い捨て、ジルウィンはアルナハトに最後の一撃を加えた。アルナハトは今度こそ倒れた。彼の身体はペンダントと融合し、一振りの剣になった。刀身に薄いルビーの挟まった、魔法の剣だった。  リズィがその剣に手を伸ばすのが見えた。ジルウィンは咄嗟にそれを引ったくって、まだ治まりきらずにいる炎の絨毯の上を駆け抜けた。 「ジルウィン!」  後ろからだれか---リズィだろうか---叫んだような気がした。  リズィに止めを刺させるわけにはいかない。刃物でヒトを殺めれば、彼女は僧侶ではなくなってしまう。地上に降りたとはいえ、神の目たる鷹族であるジルウィンには、この世界の僧侶をむざむざ失うような真似はできなかった。それに、好きなひとを自らの手で殺して、リズィが幸せになれるとも思えなかった。仮令(たとえ)彼女がそれを望んでいるとしても。  数秒で彼女は駆け抜けた。その目の前で、ダーネルはアルフレッドソンの長刀に組み敷かれている。ジルウィンは迷うことなく、ダーネルの身体に魔剣を突き立てた。 「おお、お……」  死んでいたはずのダーネルは、無気味な声をあげ、びくり、びくりと手足を震わせた。徐々に、その姿は老人のものへと変わっていった。 「儂は不死身だ……こんなことをしても……何度でも復活するぞ……」 「ごたくはいいからさっさと眠りについたらどうだ」  ダーネル---いや、『持たざる者』は顔をゆがめて、一瞬笑ったようだった。 「おぬしらも……ただでは済まさぬ……くっくっ…永劫の闇に、果てるがよい……」  轟音が鳴り響いた。  全員が理解した。再びムーブアースが用いられたのだ。このまま工房を地中に沈めるために。 「逃げるぞ!!」  アルフレッドソンは叫ぶなり、すぐ先で腰を抜かしているオルフェアを担ぎ上げ、そのまま出口に向けて走り出した。 「リズィ、行こう!」  ジルウィンはリズィを振り返って声をかけた。リズィが首を横に振るのが見えた。 「行って。私は残るから」 「……わかった」  ジルウィンは胸の痛みを堪えて前を向いた。ダルフェリルと共に出口へ向けて走り出した。と、曲がり角からロルジャーカーが現れた。てっきりダーネルに始末されたと思っていたが、隠れて彼を殺すチャンスを伺っていたらしかった。 「姐さん…!!」  ロルジャーカーは泣きそうな声で叫んだ。 「姐さん!! 逃げやしょう!!」  リズィは微笑んだように見えた。そして「ごめんね」と言った。 「姐さんが残るなら、あっしも残りやす!」  ロルジャーカーは泣いていた。リズィは静かな声で、「彼も連れてって」とダルフェリルに頼んだ。 「わかった。できるだけやってみる」  ダルフェリルはがっしりとロルジャーカーを掴んで引きずった。 「イヤです! 姐さん! 姐さん! 姐さあああああん!!」  ロルジャーカーは暴れた。容易には連れて行けそうになかったので、ジルウィンはすかさずロルジャーカーに当て身を食らわせた。 「行こう、ダルダルさん」 「ああ」  ダルフェリルはロルジャーカーを担ぎ上げ、出口に向かって走った。 「………」  他の皆が走り去るのを見届けてから、リズィはダーネルの死体のそばに膝をついた。 「……やっと…二人きりになれましたね…………ダーネル様…」  このまま二人で---------------。  …………………………。  ………………。  ………。  目の前に。  ゆらいでいる。  ああ、これは、自分。  否、自分、ではなくて。  過ぎゆく日々。  戻される。  引き戻された一同の目の前に、ダーネルの亡霊が立っていた。  一瞬のうちに、白日夢を見たらしい。だが夢というにはあまりにリアル、あまりに幸福かつ不幸、あまりに長い白日夢であった。 「私は」  ダーネルの亡霊が口を開いた。 「『彼』に操られ、偽りの記憶を植えつけられてしまっていたのか………」  彼は、ここで死んだのではなかった。  蛮族の来襲が、彼らの死因ではなかった。  すべては『持たざる者』の偽りだった。3世紀を経てなお、この工房ごとペテンにかけられていたのだ。  ダーネルの亡霊は、そばにいたヴァイオラに目を向けた。なぜか彼には、ヴァイオラがリズィの体験を共有してきたことがわかっているようだった。 「おぬしに聞きたい。彼らは……ちゃんと逃げ延びたのだろうか。あのあと、幸せに暮らせただろうか」  ヴァイオラは肯いた。 「ええ。彼らは自分たちの生活をするためにここから発ってゆきました」  実のところ、あの「夜」にリズィが工房に残ることを選択したため、ヴァイオラは他の4人がその後どうしたかを知らなかった。だがきっと、彼らなら生き延びたことだろう。そして、リズィが残ったことは言うまい。彼女はあれで想いを遂げたのだから。ヴァイオラはダーネルを安心させるように言い加えた。 「みんな、幸せになりましたよ」 「そうか」  ダーネルの亡霊は笑みを浮かべた。満面の笑みだった。皆、彼が心残りだったことを昇華させたのだと感じた。  目の前の風景が揺らいだようだった。それは波打ち、霞がかかるように曖昧になっていった。全員、再び意識が遠のいてゆくのを感じていた。  ヴァイオラは最後にダーネルの声を聞いた気がした。それは頭の中に直接響いた。扉の、コマンドワードだと、根拠なく確信した。そのまま気を失った。  遠く、どこかでダーネルが身につけていたアミュレットとリングが、ガランと落ちた音がした。 4■夢の余韻  目覚めると、そこはガラス張りの部屋だった。上下に分かれてはいるが、全員、そこから一歩も動いていなかった。  一人一人が工房の研究員としての記憶を持ち、それに蛮族たちの一時的な記憶までが混ざり合って、一同はごちゃごちゃな頭を抱えて起きなければならなかった。  Gは、ジルウィンの記憶により、鷹族の「成人の儀式」がどういうものかを思い出していた。ふるふると頭を振った。  アルトは、アルナハトが殺されたときの記憶を、まざまざと甦らせた。辛かった。ボクは……ボクは、殺される運命なんだろうか。じっと、耐えるように考え込んだ。  と、前触れなく、上の間にルビーの挟まった剣が現れた。ずっと以前の夜中に、セリフィアの前に出現したのと同じ剣だった。一同の心の中に声が響いた。 「ありがとう、お兄ちゃん。ボクを救ってくれて」  セリフィアにはわかった。この声は、弟のラルキアだ。声にはあの夜感じた悲痛さがなく、ちょうど正気を取り戻したかのように聞こえた。 「ラルキア、なのか」 「今度はボクが恩返しするね」  剣はそれだけ言って姿を消した。 「おい」  下からカインの声が響いた。 「ロッツが死にかけてる。どっちか一人、診に来てくれ」 「私、行ってきます」  ラクリマが立ち上がった。ヴァイオラは「一人で大丈夫?」と声をかけた。 「大丈夫だと思います。分岐のところで下に行けばいいんですよね」  おや、と、ヴァイオラは思った。さっき自分が見た夢---夢だと思うのだが---は、自分一人のものではなかったのだろうか。もしかして、この場の全員が共有している……?  それよりも、と、彼女はセリフィアに話しかけた。 「さっきの剣、『お兄ちゃん』って言ってたけど」 「弟のラルキアです。ラストンに、母さんと残ってた……」  セリフィアは唇を噛んだ。ラルキアといえば、Gの夢でハイブに襲われていた子か、と、ヴァイオラは思い出した。 「その弟さんの魂が、あの剣に……?」 「どうしてかわからないけれど……」  上での会話を聞きながら、ラクリマはロッツに治療を施していた。危ないところだった。あと数分遅れていたら、彼は死んでしまっていただろう。ということは、ここでドッペルゲンガーチックな敵と戦ったとき、ラクリマたちから見て「あちら側」のロッツが本物のロッツだったに相違ない。本当に危なかった。彼女はヒーリングスタッフと呪文を使って彼の体力を回復させたが、それでもまだまだ足りなかった。 「ごめんなさい。今日のところはこれで我慢してください」 「ああ……すいやせん、お嬢……」  ロッツはのろのろと起きあがった。ラクリマは、その向こうでGがずっと頭をふるふる振っていることに気づいた。 「……Gさん? 大丈夫ですか?」  様子を診たが、身体に異常はないようだった。  ラクリマの声で、ヴァイオラもGの様子が変なことに気づいた。 「どうしたの、ジーさん?」  Gはふるふるを止めていきなり立ち上がった。「上へ行こうか!」少しわざとらしいような明るい調子で、彼女はかけ声を掛けた。  下の人間が上の階に移動し、全員が集まったところで、今までずっと黙り込んでいたアルトが口を開いた。 「あの〜…ボクがボクである以上、簡単に殺しませんよね?」 「そんなことしませんよ!!」  ラクリマが悲鳴に似た叫びをあげた。ほぼ同時に、 「だってお前はアルトだろ」 と、セリフィアも答を返した。最後にヴァイオラが、「夢の中で何て名前だったか知らないけど、アルトはアルトでしょ」と、締めくくった。 「そうですよね。ボクはアルトですよね」  アルトは安堵の表情を浮かべた。 「夢の中って……アルトさん、夢で何て名前だったんですか?」  ラクリマが尋ねると、アルトは「アルナハトです」と答えた。実は、ラクリマが体験を共有していたオルフェアはアルナハトの最期を知らなかった。彼女は今ここで、アルナハトが仲間の手で殺されたことをはっきり知ったのだった。  他の人間はアルトに対して、やや気まずい思いを抱いていた。だが、アルトがこう言ったので、もうそれには捕らわれないことに決めた。アルトはきっぱりと言った。 「彼は命を絶つことで救われたから、ボクは生きて救うことにします」  どうやら同じ夢、あるいは過去の記憶を、それぞれ違う人物の視点から見ていたらしいということが、お互いに理解された。セリフィアは突然不安になってそっとヴァイオラに尋ねた。 「ヴァーさん、違うよね?」  彼が「ジルウィンだったのはヴァーさんじゃないよね?」と訊いてきているのだとわかって、ヴァイオラは吹き出した。 「ダーネルの私室のほうから行こう」  カインが立ち上がった。宝物庫はあと回しにすることになったが、ラクリマが、 「そういえばコマンドワードがわからないから、結局、開けられないんですよね?」 と、首を傾げた。ヴァイオラはさりげなく答えて言った。 「ああ、それはわかったみたい」 「そうなんですか?」 「うん。だからまずダーネルの私室に行こう」  ラクリマがふと目をやると、またしてもGが頭をふるふる振っていた。 「……Gさん?」 「どうしたんだ、G?」 「具合が悪いなら、あとから来ますか?」  などと口々に言っていると、ヴァイオラが「大丈夫。動けば一緒についてくると思うよ」と歩きだした。その言葉どおり、Gは立ち上がって、投げやりな明るい調子でかけ声を掛けた。 「よーし、行こー」  一同は夢の中でダーネルの亡霊と出会った、彼の私室へ向かった。扉を開けると、夢で見たとおりの間取りだった。ただ、生身のダーネルも幽霊のダーネルもいない点だけが異なっていた。  ダーネルが立っていたと思われる場所を見に行くと、アミュレットとリングがそれぞれ一つずつ床に落ちていた。アルトはそれらを拾って、鑑定してみた。  指輪のほうはファイアーレジストリングだった。例の隠し扉からドラゴンのレリーフまで火に焼かれることなくたどりつくためのものだろう。  その次に、アミュレットを見て、アルトはハッとした。 (これをつければ、中のヒトを押さえ込める……)  彼は、みんなに向かって言った。 「すいません。これはボクが着けさせてもらいます」  ラクリマは「何なんですか?」と訊きながら、アミュレットを観察した。 「プロテクション・アミュレットですね?」 「わかるのか?」  カインがそばに寄ってきた。 「ちょっとだけ。精神攻撃に対する防護ですけど……それに何か、特別な機能があるみたい」  話を聞いていて、リズィの記憶を持つヴァイオラは、それはダーネルが自分の中のもう一人を押さえ込むために着けていたものだと、思い出した。みんなの目の前で、アルトはアミュレットを身に着けた。  途端に、「活動停止」のシグナルが内面世界で鳴り出した。 「しばらく眠らせてもらいます」  アルトはにこにこと、だが力強く口にした。 「これは、ボクの闘いですから」  そう言って、そのまま眠りに入った。  私室では他に、ダーネルが使っていたのだろう、外出用のローブを手に入れた。魔法のローブで+1のようだった。カインはこのローブで、アルトをくるんで担いだ。  ヴァイオラは、本棚から3冊ほど状態の良さそうなものを引き出した。一冊は魔術師の日記で、共通語ではないためリードマジックかリードランゲージの呪文がなければ読めないようだった。他に、ホムンクルスの本---だいぶページが抜け落ちていた---と、精神分析の本が一冊ずつだった。そのあとで彼女は、夢でダーネルの亡霊が立っていたあたりに、弔いの酒を撒いた。  ラクリマは、マジックアイテム関連の書物を本棚から選び出した。「これ、トーラファンさんへのお土産にしてもいいですか」と、一応、他の人間に伺いを立て、許可を得てから荷物にしまい込んだ。その最中に、再び気づいた。 「Gさん…?」  Gはまた頭をふるふる振っていた。ヴァイオラは、 「宝物庫へ行ってる。あとからおいで」 と言って、宝物庫へ急いだ。他の人間にコマンドワードを聞かれたくなかった。  扉の前で、素早く小声で唱えた。 〈我願う、リズィの幸せを〉  扉は開いた。後ろから、みんなのやってくる足音がした。  宝物庫は、幾つかの宝飾品および宝石と、数千枚あるだろうコインを収蔵していた。宝石はともかく、コインはとても持ちきれそうになかった。 「ヘルモークに持たせよう」  Gの提案で、ヘルモークにも財宝運びを手伝ってもらうことになった。カインは「呼んでくる」と、一人で工房の入り口まで戻った。久しぶりに外に出た途端、「よう、無事だったか」と、ヘルモークの声がした。 「中に現金があるんだが……」 「つまり持ちきれないんだな?」  ヘルモークは要領よく察した。カインのあとをついて来ながら、彼は、 「途中で迷宮の雰囲気ががらりと変わってな。お前らがうまくやったんだろうと思ったよ」 と、言った。  結局、ヘルモークに手伝ってもらっても、全部は持ちきれないとわかった。仕方ないので、残り1000枚は、入り口付近に移動させ、すぐには見つからないようにロッツに偽装してもらった。何かあったとき、非常用資金として取りに来ればいい。それまでにだれかが見つけて持ち去ってしまったら、そのときはそのときだ。  工房を去る前、ヴァイオラはリズィの扉に触れて、何事か呟いたようだった。  翌、4月22日。  帰路も、厄介なモンスターとの遭遇はなかった。Gは何を思いついたのか、道すがら花を手折っては本に挟んでいた。どうやら押し花を作っているらしかった。  4月23日。  野営地で、ラクリマはそっとヴァイオラに尋ねた。 「あの…魔晶宮を壊したのは、だれだったんですか」  ヴァイオラはラクリマを見て、「知りたい?」と聞いた。「はい。」「……ちょっと薪拾いにでも行こうか。」  二人は連れだって野営地から離れた場所へ移動した。ヴァイオラは適当なところに腰掛けると、話し始めた。 「あれはリズィがやったんだよねー。リズィはダーネルのことが好きだったんだよねー。若いときから一緒に住んでてさー」  ラクリマが相づちを打った。 「ああ、ダーネルさんの『幼妻』って、リズィさんのことだったんですか」  市内でそういう噂になっていたことは、ヴァイオラも覚えていた。そういえばそんな噂もあったね、と言ってから、彼女は続けた。 「なんていうのか、ここらへんがリズィって奴の後ろ向きなところでイヤなんだけど、彼女はダーネルに執着しちゃってたんだよねー」  ヴァイオラは話しながら、Y字の小枝を拾い上げてちょっと左右に振った。 「ダーネルは、一度実験を失敗して、そのせいでだんだん裏ダーネルに乗っ取られていっちゃったの。それで、自分が消えてしまう直前に、リズィとロルジャーカーに『助けてくれ』ってメッセージを送ったの。『自分を殺してくれ』って」  ヴァイオラは、ふと、そのときのことを思い出した。少し目を落とした。 『リズィ…!』  その声は頭に直接響いてきた。響くといえば聞こえがいいが、ほとんど内側から殴られているような衝撃であった。  消えゆく者の絶望と恐怖。痛み、痛みに次ぐ痛み。これは彼のもの。これは私のもの。苦痛を共有するリズィの心は、悲鳴に彩られながらもどこか悦びを感じているようだった。リズィは必死になって応えた。 「私は…ここです。ここに居ます」  その途端、彼女はそこから切り離された。痛みはなかった。ただ、明瞭になった彼の声から苦しみばかりが感じ取れた。 『……助けてくれ、私が私でなくなってしまう。もう時がない。私を、殺して欲しい。私の中の何かが、目を覚ます。それに私の研究を見せてはならない』  だんだん声が遠くなるようだった。何かに遮られたように、くぐもって細くなる。一瞬、親近を取り戻し、 『私を殺して、私の研究を無きモノにして欲しい。奴に渡してはならない------』  ぷつり、と、糸が切れるような感触があった。あとは空白。  あのとき、ダーネルは消えた---死んだ。そしてリズィの半身も。  頽れるリズィを支えたのはロルジャーカーだった。 「姐さん!」  ずっと、ずっと恐れていた「時」が来てしまった。リズィは弱音を吐いた。 「もう、だめかもしれない」 「しっかりしてくだせぇ!」  ロルジャーカーは彼女の肩を掴み、揺さぶりながらいつになく強い口調で言った。 「姐さんがやらなけりゃ、だれが親方の願いを叶えるんでやすか。だれが仇をとるんでやすか。……大丈夫です、あっしがついていますよ」 「……そう、そうね。その通りだわ」  叶えなければ。彼の、最初で最後の願いを。リズィは顔をあげた。  目の前には、ロルジャーカーではなく、ラクリマの顔があった。ヴァイオラは淡々と続けた。 「それでリズィとロルジャーカーは蛮族を引き入れたり魔晶宮を壊したりして、いろいろ画策したの」  そうだったのかと、ラクリマは納得した。オルフェアの記憶にはいろいろとわからないことがあったが、中でもこのことはオルフェア自身の理解も曖昧だったため、大きな疑問として残っていた。一度はリズィがダーネルと一緒に全員を殺すつもりではないかと疑いさえしたのだ。リズィは、あのとき既に、別人となっていたダーネルを殺すつもりだった。そうと知って、ようやく落ち着いた。 「リズィもねー、もうちょっと前向きに考えればよかったと思うんだけどねー。結局死んじゃって……」  ヴァイオラがぽつりと言うのを聞いて、ラクリマは思わず口にしていた。 「ヴァイオラさんがリズィさんだったらよかったんですね」  ヴァイオラは苦笑して答えた。 「イヤだよ、私は」  確かに、リズィと自分との間には、共通したものがなくはない。リズィの家族は、ちょうどヴァイオラの家族と同じように、彼女が彼女らしく在ることを拒んだ。だからリズィは家を飛び出し、すでに知り合っていたダーネルのもとに転がり込んだのだ。それからのリズィは、ダーネルのもとで自分なりに研鑽し、僧侶の能力を身につけていった。そしてあらゆる意味で彼の腹心となっていった。それはいい。だが、と、ヴァイオラは思った。 (それはあんたたちの事情。私は私)  ヴァイオラがきっぱりと否定するのを聞いて、ラクリマはなぜかホッとした。 (……よかった。ヴァイオラさんだ)  わからないことが多すぎて、いつの間にか現実の仲間たちとの間にも違和感を覚えていたのかもしれない。わからないといえば、オルフェアのアルフレッドソンに対する感情は、群を抜いて奇怪だった。彼女の彼に対する思いが、茨のようなものから日の光のようなものへ変わっていくのはわかっても、それがどういうことなのかは、ラクリマにはまだ理解できなかった。 5■花のある家  4月25日、セロ村に帰着した。  まずはヘルモークに彼の取り分を支払い、それから、我が家に帰って宝物の整理に取りかかった。宝石や宝飾品は、手数料が1割かかるが、トムの店で鑑定してもらった。  結局のところ、持ち帰ってきたものの内訳は、以下のようになった。  現金   プラチナ貨  二百枚   ゴールド貨  三千八百枚  宝石   エメラルド  1個(@五千gp相当)   オパール   4個(@壱千gp相当)   ガーネット  3個(@壱百gp相当)   メノウ    1個(@壱拾gp相当)  宝飾品   ブレスレット 1個(@二千gp相当)   イヤリング  1個(@四千gp相当)   ハート    1個(@七千五百gp相当)  書物      4冊(壱千三百八拾九gp相当)  全部合わせて、鑑定料を差し引いたあとでも二万六千gpを超えた。セロ村に税としてあがりの1割を納めることになっていたので、それを支払い、アルトを除いた6人分のウェポンマスタリーの費用一万二千gpを取り分けてもなお、一万gpほど余った。  ヴァイオラは、エメラルドとブレスレットとを既存のパーティ資金で両替し、その現金を各自に一千gpずつ配った。これで鎧を新調するのもよし、食い倒れるのもよし、いずれにしろ彼らにも、そろそろ金銭の使い方を身につけてもらおうという心づもりだった。ただし、ロッツと自分の分は現金で用意できなかったので、そのことはロッツに断っておいた。彼には今さら金銭の使い道を学習する必要などないので、問題はない。 「ヴァーさん、耳を揃えて返したほうがいい? 半分ずつでもいいか?」  セリフィアが話しかけてきて、ヴァイオラは「何のこと?」と聞き返した。セリフィアは、以前、フィルシムでヴァイオラに出してもらった保釈金を、返したいのだと言った。 「いいよ、別に」 「いや、返したいんだ」 「じゃあ、500gpもらっておくから」  セリフィアはヴァイオラにまず半金の500gpを渡した。まだ借金は残っている。それでも少し気が軽くなった。  そういえばアルトもGへの借金を気にしていたことを思い出し、セリフィアはアミュレットをはずして彼を起こしてやり、配当金を渡してやった。アルトは喜んで、Gに借りていた金額を返済した。  カインは、工房の食堂から持ち出した銀の飾り皿を、暖炉の上に置いた。飾りながら、なぜ自分はこんなことをしているのだろうと思った。皿は使うもので、飾るものじゃない。そんなことをしたことは、カインには未だかつてない。それなのになぜ……。その答を、彼はおそらく知っていた。忌々しい、『奴』の記憶がそうさせているのだろう。忌々しいながら、いつの間にかカインには、『奴』の記憶を受け入れる準備が整いつつあった。  食卓では、いつフィルシムへ出発するかについての相談が始まっていた。セリフィアが言った。 「わけは言えないが、1、2日、余裕がほしい」  ヴァイオラはすかさず「菜種油でも作るの?」と尋ねた。セリフィアは辛うじて平静を保ち、「作ったことありません」と返した。 「セリフィアさん、お花が好きなんですか?」  ラクリマの問いに、セリフィアは肯いて嬉しそうに言った。 「母さんが好きだったんだ。ラストンの家は、いつも花でいっぱいだった」 「また『母さん』かよ…!」  ヴァイオラがこっそり揶揄するのを聞いて、Gは思った。 (ああ、そう言えばマザコンだって言ってたっけなぁ……お母さんが帰ってきたらセリフィアさん喜ぶだろうなぁ)  ちょうどいいかと思って、セリフィアは改まって話しだした。 「みんなに頼みがある。実はひまわりの種を頼んであるんだが、この家で育ててもいいだろうか?」  だれにも異存はなかった。セリフィアがホッと安堵の息をつこうとしたとき、ヴァイオラの声が耳に入ってきた。 「ひまわりの種って、美味しいんだよね」 (なんでそんな話になるんだ!?)  セリフィアが吃驚していると、ラクリマがあとを引き取った。 「ええ。それに身体にもいいんですよ」 「身体にいいのか。知らなかったな。俺たちは取ったら食うか売るかしてたが」  カインも話に参加しだした。 「栄養価が高いんです。カインさん、売ったことあるんですか? 油が取れるから?」 「いや、そいつは飼料にするって言ってた」 「飼料ぅ〜? もったいない、酒のつまみにちょうどいいのに」 「石けんも作れますよ」  フィルシム地方出身者が和気藹々と話すその横で、セリフィアは言葉を失った。 (だからどうしてそういう話になるんだぁああ!)  セリフィアにとって、花はその姿を愛でるものだった。みんなにもそうして楽しんでもらおうと思って、種を注文したのに……なのに、それがどうして「食べる」だの「売る」だのいう話になるんだ!?  とどめはGだった。 「食べるなんてもったいない、きれいな花は押し花にするものだろう!」 (……ひまわりの押し花?)  全員が怪訝な顔をしたようだった。 「だって、取っておきたいじゃないか?」 「別に」  ヴァイオラは飄々と否定した。Gはショックを受けた。 「だってそこらに咲いてるじゃない」  アルトは先刻から吹き出しそうなのを必死にこらえていた。育った環境が違うと、これだけ感じ方が違うものなのかと、可笑しくて仕方なかったのだ。 「アルト、アルトはわかるよな?」  セリフィアが情けない声で、すがるように訊いてきた。 「え?」 「花って、食べたりしないよな? ただ飾るだけでいいものだよな?」 「え、ええ、まあ……」  必死の様相で訊いてくる彼に、さすがに「いいえ」とは答えられなかった。実のところ、アルトの、いや、アルトの師匠エクシヴ=ステップワゴンの家に花は多かった。多かったが、基本的に毒草の類が豊富だった。トリカブト、ベラドンナ、ジギタリス、ハシリドコロ、スズラン、キンポウゲ等々。とても単なる「観賞用」とは言いがたい。 「………」  セリフィアは何事か決意したように立ち上がり、自分の荷物から何やら取り出して表へ出ていってしまった。 「どうしたの?」 「さあ……」  彼は、先日エステラから買い求めたランの種を、やはり購入して用意しておいた鉢に植えた。それから二つ、指を鳴らした。小魔法(キャントリップ)の効果で、ランは実時間を無視してすくすく育ち、華麗な花を咲かせた。 (これを見てくれれば、きっと、みんなも気づくはずだ)  気づくはずだ、花って美しい、見るだけで素敵なものだと。  セリフィアはランの鉢を掲げて、家に入った。テーブルの真ん中にそれを置いて、 「みんなに、プレゼントするつもりで買ってあったんだ。その……きれいな花があれば心がなごむって、母さんが言ってたから」  ドキドキしながら反応を待った。 「お母さん、そんなに大事?」  Gが1センチほどずれた質問を投げてきた。セリフィアは頷いて、 「ただ一人、守ってくれたひとだから」  それから思い出したように、「母さんもだけど、家族みんな大事だよ」と付け加えた。背後でヴァイオラが密かに「マザコン男なんて死ねっ」と囁いたのには気づかなかった。  やがてカインが口を開いた。 「この花、売るといくらぐらいになるんだ、ラクリマ?」  セリフィアはしたたかノックアウトされた。  さらに容赦なく、ラクリマも、 「さあ、わかりませんけど、種か株を手に入れようとするだけで1gpくらいしますから……」 「花が咲いていればもっと高く売れるってことか?」 「たぶん」  5センチぐらい地面にめりこんだ気分のところへ、ヴァイオラが、 「え〜、でもランって、何も役に立たないじゃない。食べられないし」  一気に30センチはめりこんだ気がした。 「あら、そうですけど、あの、この間の夢のオルフェアってひと、たくさん料理を習ってて、中にはランの花を盛りつけに使うようなのもありましたよ」  だからどうして「食べる」話から離れられないんだ……。そしてGの声。 「食べたりなんかしたらダメだ! 押し花かドライフラワーにしなくちゃ、枯れて無くなっちゃうじゃないか!」  それも違うと思う、と、言いたいのかどうかもわからなくなってきた。セリフィアは救いを求めるようにアルトを見た。アルトは困ったようににこにこしていた。実際、困っていたのだ。笑いを堪えるのが大変で。  セリフィアはアルトのそばに寄って、そちらに座り直した。向こうではフィルシム育ちとガラナーク育ちが、ラストン育ちの自分には理解できない感覚の話をしている。せめて同郷のアルトにはわかってほしかった。 「なぁ……俺、間違ってるか?」 「いえ……」  アルトは何とも答えられなかった。セリフィアはとうとうテーブルに突っ伏してしまった。  テーブルに伏せってしまったセリフィアを見て、向こうの4人は少し声を潜めた。 「どうしたんでしょう?」 「さあね。ラストン人の考えることはわからないから」  Gはやや考えていたが、口を開いてフィルシム育ちの3人に問題提起した。 「セリフィアさんは、この家を花でいっぱいにしたいんだろうか?」 「ああ、そうか。弟くんのコトもあったしねぇ。悪いことしたかな」  ヴァイオラが鷹揚に頷きながら答えた。 「あの夢も影響してるのかも」  カインがあとを継いだ。あの夢、とは、ダーネルの工房跡で見た---夢と言っていいかどうかよくわからないが---夢のことだった。ダルフェリルとしての体験も何らかショックを与えているのかもしれない。ダルフェリルはセリフィアと違って、家族から仲間はずれにされた人間だった。だから逆に、現実に戻った彼には家族が懐かしいのかもしれない。 「もしかして……」 (もしかしてセリフィアはホームシック?)  声にこそ出さなかったが、皆、考えたことは同じらしかった。 「じゃあ、この家をお花でいっぱいにしてあげるのはどうでしょう?」 「ああ、それはいいな」  ラクリマの提案に、まずカインが乗った。 「そうだね。明日でも、森に入って花を採ってこようか」  ヴァイオラも賛同した。Gは瞳をきらきらさせて、 「どうせなら、セリフィアさんには内緒でやって、驚かさないか?」 「ああ、いいねぇ」  話は決まった。4人は段取りを考え、すっかり打ち合わせを済ませると、皆でセリフィアのほうを見た。 (大丈夫だ、セリフィア。待ってろ、お花でいっぱいにしてあげるから)  そんなお人好しオーラが4人から立ち上るのにセリフィアも気づいたが、何か何やらさっぱりわからず、この日は脱力状態で寝てしまった。  翌4月26日。 「今日は私たち、森に行ってきますね」  ラクリマが朝食の席でセリフィアに告げた。彼女は恐る恐る、「セリフィアさんはどうしますか?」と尋ねてきた。ささやかな違和感を感じたものの、セリフィアは特に何も疑わず、「カインもGもヴァーさんも行くなら、俺は行かなくてもいいな。今日はやることがあるから、ここにいる」と答えた。なぜか、ラクリマたちは安堵の表情を浮かべたようだった。  作戦第一弾。  セリフィアが珍しく書き物をして一日を過ごしていた間、ヴァイオラ、G、カイン、ラクリマ、それから引っ張り込まれたロッツも、森で花の採取に明け暮れた。植え替えのやりやすいものを中心に、家の周辺ではそれほど見られない花々の根を土ごと掘り出し、バケツや木桶に入れていった。  青はヤマルリソウ、ハルリンドウ、ルリハコベ、キクザキイチゲ、ミヤコワスレ。  赤はサクラソウ、シラネアオイ、オオミスミソウ、シラン、カタクリ、アネモネ。  白はミヤマカタバミ、イチリンソウ、シャガ、アマナ、ハナニラ、ユキヤナギ。  黄はキンラン、フリージア、ヤマブキ、レンギョウ。  色とりどりはスミレで、ニオイタチツボスミレ、アカネスミレ、フモトスミレ、サクラスミレ、キスミレと、すべての色が揃い踏み。  食卓に飾るヤマザクラの枝を一折り手折り、一同は意気揚々とセロ村に引き上げた。とはいえ、そのまま家に帰ればセリフィアにばれてしまうので、昨日打ち合わせたとおりに村の北側から台車を引いて帰り、草花はいったんキャスリーン婆さんのところで預かってもらった。夜になったら行動開始だ。  森へいったい何をしに行ったのか、手ぶらで、そのくせ泥まみれで帰ってきた5人を見て、セリフィアは首を傾げた。何かがおかしい。  作戦第二弾。  夕食のあとで、ヴァイオラはおもむろに酒瓶を取り出した。 「ボーヤ、君も酒が飲めるようになったんだよねぇ」 「ああ、いくらでもつきあうぞ」  カインの返事を待つまでもなく、ヴァイオラはきゅぽんと派手に音を立てて酒の栓を開けた。ぷんと独特の匂いがその場に漂った。セリフィアが顔をしかめるのが目の端に入ったが、構わなかった。それが目的でやっているのだ。 「私もたまには」  ラクリマが自分の分も含め、杯を卓上に並べた。こぽこぽと小気味いい音がたち、杯にはいずれもなみなみと酒が注がれた。酒の匂いはますます強まった。 「俺、先に寝る」  セリフィアはそそくさと屋根裏にあがった。酒の匂いを避けるように、毛布を頭からかぶった。下からみんなが楽しげに談笑する音が響いてくる。同時に、酒を酌み交わす音も。  いつの間にか、Gもあがってきたらしかった。Gは優しい声で子守歌を歌ってくれた。セリフィアは安心して、子守歌を枕に眠りに落ちていった。  作戦第三弾。  セリフィアが完全に寝入ったのを見計らって(このころには運良くアルトも寝てしまっていた)、カインとロッツはキャスリーン婆さんのところへ花の台車を取りに行った。ヴァイオラはサイレンスの呪文を家の中にかけて騒音が立たないようにし、ラクリマとGは鉢や鉢代わりになる容器を用意した。主にラクリマの指示で、それぞれ鉢や桶や壺やバケツに花を植え替え、室内のそこかしこに飾った。ヤマブキ、ユキヤナギなどの低木や、日当たりを特に好む花は表に植えた。もちろん、あとからひまわりを植えるスペースを空けておくことも忘れなかった。  仕事を終えて、全員、もうひとっ風呂浴びた。それから浮かれた気分で寝床に入った。  4月27日、朝。  ちょっとだけいつもより早い時間にセリフィアが起きると、珍しく隣にはまだGが寝ていた。  1階に降りる途中で気づいた。家の中は様変わりしていた。そこかしこに鉢植えが---ときどきバケツや桶に植わっていたが---飾られており、春爛漫、色とりどりの花々がかぐわしい土の香とともにどこからも迫ってくるようだった。  「花だらけ」。それがセリフィアの印象で、それ以上は考えることができなかった。何が起きているのか彼には全然わからなかったし、どう受け止めたらいいのかも頭の中で整理をつけられなかった。 「お早うございます」  アルトの声がした。セリフィアは振り向くなり、挨拶もせずに「これ、何だ? 知ってるか?」と詰め寄った。アルトは「さあ」と言って苦笑した。彼も知らないらしい。 「お早うございますっ。ああ、こんな遅くなっちゃって……」  ラクリマがパタパタと部屋から出てきた。セリフィアが口を開こうとすると、 「ごめんなさい、私、神殿に行ってきます。早く戻るようにしますから」  そう断って出ていってしまった。彼女が戸を開けたときに、表にも何やら花が増えているようなのにセリフィアは気づいた。扉をしっかり開けて左右を見れば、白やら黄色やらの花がそよ風に揺れており、下には赤や紫の花が艶やかな花弁をしっかり開き、上向きに咲いていた。 「……素振りに行ってくる」  セリフィアはそう言い捨てて、10フィートソードを手に河原へ向かった。30分ほど、何も考えずに素振りした。  家に戻ると朝食の仕度が整っていた。入るなり、皆が期待のこもったまなざしを向けてきた。「喜んでくれたかな」というごく単純なまなざしだったのに、セリフィアはそれにも応えられなかった。  彼はヴァイオラに尋ねた。 「これはいったい、いつから?」 「昨晩。ホームシックかと思ってみんなでやったんだけど」  どうも喜んでいないようだなぁと、ヴァイオラはセリフィアの表情から見て取った。それにしたって、他人から厚意を受けたら、年齢がヒトケタの子どもじゃないんだからそれなりの対応をしてもらいたいものだ。うわべだけでも嬉しそうにするとか、やりようがあるだろう。これじゃみんなが傷つくかもしれないのに。  空回りの厚意は、それでも家内を潤したようだった。  セリフィアが「やりたいことがある」と言っていたのを思い出して、Gは、それが終わったかどうか尋ねた。セリフィアは「まだ…」と答えた。明日には出発だからと、Gが少しがっかりしたように、 「そうか。ピクニックに誘おうと思っていたのになぁ……この間、ダメだったから」 と、言うと、セリフィアのほうが「いや、行こう」と返してきた。 「えっ。いいのか? だって、やることがあるんだろう?」 「うん。でもそれはやろうと思えば5分でもできるから」  ならどうして2日も必要だったんだとの疑問は飲み込んで、Gは「じゃあ行こう」とにっこり笑った。それからラクリマのほうを向いて、 「ラクリマさんも行きますよね?」 「え? 私もですか? え、えっと、構いませんけど……」  ヴァイオラとカインが同時に割って入った。 「せっかくだから二人で行ってきたら?」 「たまには二人だけで行ってこい」  Gは吃驚して聞き返した。 「えっ。どうして?」  どうしてもこうしても、セリフィアとGがたがいに好意を持っていることは、少なくともヴァイオラやカインには筒抜けで、多少もどかしく感じるくらいだった。気を利かせているのに「どうして?」と返されるほうが不思議だ。  ラクリマも何か感ずるところがあったらしく、 「そうですね。たまにはお二人でいらしては? お天気もいいですし、私、今日は洗濯しなくちゃ」 「あ、洗濯はボクが手伝いますから。あとは任せて、お二人とも一日くらい遊んでくるといいですよ」  アルトまで後押しに加わった。 「えー……」  Gは自分から誘っておきながら、まだ納得行かない顔をしていた。 「セリフィアさんは?」  気になってセリフィアに尋ねると、 「うん、いいよ。二人で行こう」  笑顔で答えが返ってきた。  それで決まった。  Gは、(戦士二人で何しに行くんだかなぁ)などと思いながらも、喜びを隠せなかった。セリフィアが、Gと二人でもいいと言ってくれたことが、嬉しかった。  彼が好き。だから、喜んでもらえることは何でもしたい。家中を花いっぱいに埋めることも、それから、自分の命と引き換えに彼のお母さんを生き返らせることだって。  ラクリマにお弁当を作ってもらって、昼より少し前に、二人は森へ出かけていった。そこらじゅうが春を謳歌していた。