[shortland VIII-10] ■SL8・第10話「工房の日常」■ 〜目次〜 1■開所 2■オルフェア 3■アルフレッドソン 4■恋の病 5■ジルウィンとダルフェリル 6■荼毘 7■婚礼 <主な登場人物> 【サーランド時代】‥‥( )内は同期元 ★ダーネル=リッシュオット  ダーネル工房の主。伯爵。大魔術師。自力で魔法が使え、魔法奥義も能くする、いわゆる「変わり者」。都市における財産を処分して「恵みの森」に工房を作った。都市部では生きられない変わり者らを集めて、主にトランスミュート能力を持つ怪物の研究、生産を行う。 ☆リズィ=フォア・ローンウェルハ(ヴァイオラ)  ダーネル工房主任研究員。工房ではダーネルの助手として全般を管理。ダーネルとは、唯一、工房を開く前からのつきあい。 ★ロルジャーカー(ロッツ)  ダーネル工房衛兵。盗賊兼弓兵。蛮族出身。 ☆オルフェア=メリシェン(ラクリマ)  ダーネル工房研究員。工房では主に完成体の管理、データ収集を担当。 ★アルフレッドソン=モロカーゼ(カイン)  ダーネル工房主任衛兵。上流貴族出身。 ★ダルフェリル(セリフィア)  ダーネル工房衛兵。元剣奴。 ☆ジルウィン=ミアフーフェア(G)  ダーネル工房研究員。鷹族の獣人。工房では、モンスターの能力の研究、強化などを担当。 ★アルナハト=ビューブルグ(アルト)  ダーネル工房研究員。記憶喪失の少年。 ※現代(SL暦460年)のPCについては、第9話までの人物紹介をご覧ください。 1■開所  ショートランド暦115年5月下旬。  時は、きわめて高い魔法水準を有する統一王朝「サーランド王国」の時代、いわゆるサーランド時代の中期にあたる。人々は氾濫する魔法で日々を営み、安寧と愉楽を享受していた。魔法への依存度が高まる一方、魔法を使えない人間は人間(市民)に非ずという差別的風潮はますます劣悪化し、高々度文明を誇る魔導王国にも徐々に退廃の足音が忍び寄っていた。  ある館の一室で、魔術師にしては立派な体躯をした貴族の、中年の男と、身なりのよい上流階級らしい若い娘とが、二人きりで相談事をしていた。 「早いもので、現在の地位に就いて15年近くの時が流れた。その間、私はこの身体に対していろいろと試してみた。結果は何も出てこなかったが、やはりしっくりこないモノを感じる。その感じは、私としての記憶を持ってから今までずっと変わらない。いやむしろ、強くなっているような気がする。何かしなければならない。何か忘れている気がする。もどかしい。はっきりいえば、今の私は私ではない。その想いは強くある」  男は息を継いだ。 「この退廃と堕落が渦巻く都市での生活や、貴族同士の勢力争い、幼稚な駆け引きにも正直疲れた。幸い、金には困っていないので、どこか地方にでも引き籠もって、本格的に『自分探し』の研究でもやっていこうかと思うが……こんな莫迦げたことを言いだす私に、お前はついてきてくれるか?」  男の問いに、娘はためらうことなく答えた。 「はい」  男は微笑んで娘の名を呼んだ。 「そうか……ありがとう、リズィ」  娘は真剣な面差しでたずねた。 「研究所はどこへ作るんですか?」 「場所はやはり、『恵みの森』あたりが妥当だろうと思う」  『恵みの森』というのは、北方のフィルシム地方にある森で、モンスターの豊富さで有名だった。魔法を使える市民でも、一般のレベルでは歩くのに危険な場所だ。だが、その森の名を聞いても、娘は全く動じなかった。 「『恵みの森』ですか」  男はうなずいて、 「最初はお前と二人だけだろうが、そのうちに研究員も増やしたい。私と同じような……自分で魔法を使えて、都市では生きにくい人間が他にもいるはずだ。それを捜そうと思う」 「わかりました」  115年6月上旬。  研究所---彼らの呼び方に倣うなら、「工房」を開いて10日も経たないころ、リズィが定時確認を行っていると、何かが引っかかった。よく見れば汚い男が一人、工房の前あたりで行き倒れている。 (もう死んでるんだろうか)  彼女はボーンゴーレムを供に、表に出て、行き倒れのそばに近寄った。と、男の手がぴくりと動くのが見えた。  リズィが見守っていると、男はよれよれと立ち上がった。それから、どこにそんな体力が残っていたのか、声を張り上げた。 「あっしは蛮族出身の、ロルジャーカーというしがないモンでやす。決して怪しいモンじゃござんせん」  怪しくないわけがないだろう、と、リズィは思った。 「見たところ、おあねえさんはこの近くにお住まいのご様子。あっしをおあねえさんのところで働かせてくだせえ」  ロルジャーカーと名乗った男は、目をきらきらさせて言った。 「後生でやす。このままのたれ死ぬのはごめんでやんす。おあねえさんのところで使ってやってくだせえ。身を粉にして働きやすから……!!」  一瞬、静寂が流れた。後ろで梢の葉がかさりと揺れた。 「……そこで待ってるように」  リズィは簡潔にそう言っていったん工房へ引き返した。入り口脇の警備室に入ると、ダーネルに連絡をとった。 「どうします? こんなこと言ってますけど。追い払いますか、それとも始末しますか?」  リズィはその綺麗な顔から想像もつかないような言葉を口にした。ダーネルは、しかし、意外な答えを返してきた。 「ちょうど身の回りの雑用をだれかに頼まなければと思っていたところだ。悪い人間ではなさそうだから、雇ってみようか」 「大丈夫でしょうか?」 「なに、心配せずとも二心を抱けぬようにすればいいことだ」 「それもそうですね」  リズィは通信を切って、再び表に出た。先ほどの場所では、ロルジャーカーが落ち着かない様子で待っていた。 「本当に働く気があるの?」 「もちろんでやすよ!!」  ロルジャーカーは嬉しそうに声を上げた。 「じゃ、まず風呂に入って」  リズィは案内しながら指図した。実のところ、彼のニオイの酷さといったら、耐え難いモノがあった。 「しっかり洗ってきなさいよ」  ロルジャーカーが案内されたのは、水風呂だった。 (蛮族にお湯を使わせることもない)  彼らのなれそめはそんなものだった。  115年12月中旬。  ロルジャーカーをメンバーに迎えて半年、ある日、ダーネルはひどく憔悴した様子で現れた。気遣うリズィに「研究のことだが」と口を開いた。 「方針を変えることにした。自分を研究対象にするのはやはり危ないようだ。この間、実験に失敗して、危うく‥‥するところだった」  リズィは顔色を変えた。 「気をつけてください、所長。所長に何かあったら……」 「わかっている……。さすがに懲りたからな、これからはモンスターで臨床データをとるつもりだ」 「そうなさってください。ピクニックがてら、お弁当を持ってモンスター・ハントというのはどうでしょう」 「それはいいな」  こうして工房にはモンスター用の檻が造られることになった。  116年6月上旬。  そんな話をしてからさらに半年ほどが過ぎた。  ある日、ダーネルはリズィとロルジャーカーを呼んで言った。 「済まないが、私はここから引き籠もろうと思う」  えっ、と、軽く驚いた表情のリズィに向かってダーネルは、 「お前には少し淋しい思いをさせるが……仕方あるまい。このまま一緒にいたら、いつ何が起きるかわからない。覚醒しかけているようだから」 「本当ですか」  リズィが心配そうに尋ねた。ダーネルはうなずいた。 「半年前に少し無茶をしたのがいけなかったようだ。あれ以来、以前の自分が目覚めそうになるのを何度か感じた」 「どういうことなんですかい?」  ロルジャーカーが口を挟んだ。 「もともとこの工房は、私自身のことを調べるための研究所なのだ。私が何者なのか……今いる私とは別の私がいるようなのでな」 「そうだったんですかい、親分」  ダーネルの説明に、ロルジャーカーはわかったのかわからないのか、鷹揚に感心してみせた。 「私に何かあったらリズィを頼むよ」 「合点でさ。あっしの命に代えてもお守りいたしやす」 「そんなに切迫した状況なのですか?」  リズィがまた尋ねた。 「いや、今は大丈夫だ。」ダーネルは彼女を安心させるように答えた。 「向こうの意識は留めてあるから、覚醒が切迫してあるだろうわけではない。だが、何があるかわからないから、危険を避けるために君たちとは別に、奥に部屋を作ってひとりで住むつもりだ」  リズィは何か考え込むようにして、 「そうですか……では、急がなければなりませんね」  ダーネルは無言でうなずき、「1週間ほど新居を作るので引き籠もるが、心配しないでくれ」と言って話を終わらせた。  ダーネルのいなくなった夜の工房は、がらんとして見えた。  ある晩、リズィはロルジャーカーに声をかけた。 「お酒持ってうちの部屋においで」  それからというもの、晩にリズィの部屋を訪れるロルジャーカーの姿が、ときどき見られるようになった。 2■オルフェア  117年6月19日。  ダーネルが見えざる別室に引き籠もってから1年が過ぎた。ある日、彼はリズィを呼んで言った。 「実は街でいい人材を見つけた。これからスカウトしてこようと思う」 「うまくいくといいですね」 「数日、留守にするからあとを頼むよ」  117年6月20日。  オルフェアが家を焼き出されてからそろそろ3ヶ月になろうとしていた。家族もろとも家を失った彼女は、ずっと昔に住んでいた「赤瑪瑙館」に身を寄せた。  オルフェアにはもとから身寄りというものがなかった。物心ついたときには「赤瑪瑙館」---貴族の孤児や、望まれない子ども、妾腹の子どもらが預けられるところ---にいた。  8歳のとき、遠縁を名乗る男がやってきて彼女を引き取ってくれた。それから彼女はその男---養父の家で暮らすようになった。彼はやさしかった。「赤瑪瑙館」の使用人やシスターたちは、いつも自分たちのことを「厄介者」を見る目で見たけれど、このひとは違う……。  メリシェン家の屋敷は小さかったが快適だった。養父は本当にやさしい、屋敷で働く奴隷たちにも親切な、この時勢には珍しい人間だった。その彼が、どことなく世間から隠れるような姿勢を見せるのに、やがてオルフェアも気づいた。だが、その理由はあの事件が起こるまで彼女には語られなかった。  あるとき、メリシェンの本家筋にあたる貴族の屋敷から、奴隷たちが集団脱走をはかった。どんな不手際があったのか、そのうちの半分が逃走に成功してしまった。その貴族の家---モロカーゼといった---は、丸潰れの体面をなんとか取り繕うために、養父を逃亡幇助の罪で告訴した。実は彼には、貴族でありながら他人の奴隷の逃亡を幇助した疑いで、階級を降格させられた前歴があったのだ。  長くて辛い闘争のあとで、今回の件に関してはようよう推定無罪にこぎ着けた。  だが、その裁定が下った晩、屋敷は焼き討ちにあった。オルフェアは運良く九死に一生を得たが、家人はほとんどが焼け死んだ。養父ももちろん死者の側に含まれていた。焼き討ちは、件の貴族---モロカーゼ家---の差し金だという話だった。  他に行くあてもなく、「赤瑪瑙館」で所在なく過ごしていた彼女に、ある日、来客が告げられた。客の名はダーネル=リッシュオットといった。その名前には聞き覚えがあった。由緒ある伯爵家の当主だが変人で、幼妻を囲い、そのまま駆け落ちしたという噂の持ち主だ。 (そのひとがいったい何の用で…?)  得体が知れなかった。オルフェアはその来訪者に会いたくないと思った。養父の受難を目の当たりにして以来、彼女は他人を疑ってかかる癖がついていた。 「わ、私、気分が優れないので、面会はお断りしていただけませんか」  やんわりとそう告げると、取り次ぎのシスターは冷たい声で答えた。 「もう応接室にお通ししてしまいましたよ」  ため息を呑み込んで、オルフェアは今ひとたび試みた。 「頭が痛くて、気分が優れないのです。どうかお帰り願ってくださいな」 「伯爵様相手にそんなわけにはいきませんよ。だいたいオルフェアさん、あなた、朝のお勤めもきちんとこなしていたじゃありませんか。今さら頭痛だなんて」  シスターの顔に蔑むような表情が浮かんだ。オルフェアは諦めて、「今、参ります」と立ち上がった。  応接室の扉を開けると、体躯の良い中年の男が待っていた。 「あなたをスカウトしに来ました」  ダーネルはオルフェアを自分の前に座らせると、いきなりそう言った。オルフェアは何を言われたのかわからず、怪訝そうに彼を見返した。  ダーネルは思っていたよりずっと魅力的な人物だった。彼は自分が現在工房を営んでいることを説明し、オルフェアをそこの研究員として迎えたいのだと申し入れてきた。だがオルフェアには、なぜ自分にそのような話が来るのかわからなかった。だれかと間違っているのではないだろうか? 「私、研究などしたことありませんけれど……」  研究はおろか、彼女は働いたことがなかった。閉じた小さな世界で、満ち足りた暮らしをしていたのだから。 「あなたは…」  ダーネルはいきなり話の向きを変えた。 「隠しているが、あなたは本物の魔術師だろう?」 「な、何のことですか」  オルフェアはやや狼狽えながら彼に応じた。 「あなたは『石』がなくとも、自分の力で魔法が使えるだろう?」  いったいどこでそんなことを調べたのか……オルフェアは気味が悪くなった。  ダーネルがいう『石』とは『魔晶石』のことだ。魔術至上主義のサーランド国では、魔術を使える者は市民、使う能力がないものは奴隷として厳密に分けられていたが、だれもが魔術師としての素養を生得できるわけもなく、既得の「市民権」を世襲とするために『魔晶石』のシステムが取られていた。すなわち、『石』を持つ者は魔力の供給を受けられ、魔法を使えるというシステムである。『石』は今や「市民権」に等しく、持てる『石』のレベルによって人間の階級までも示されるようになっていた。このシステムを推し進めたことにより、『石』に頼らず自力で魔術を能くする人間は減少の一途を辿っており、そうした人々は、魔術至上主義社会でありながら、白眼視を受けることもしばしばであった。  オルフェアはもとから『魔晶石』を所有してはいた。だが、その『石』に供給される魔力以上の魔法が使えること、つまり、『石』のレベルを超えた魔法を使えると知ったとき、養父はそれを人前で使うなとオルフェアに言った。自力で魔法を使えること自体、他言してはならないと。  それだけではなく、彼女は生まれながらにマジックマスタリーという奥義も使えたし、奇妙なことに、通常の呪文でも実際の水準以上の効果を発揮させることがあった。小さいころに気味悪がられた経験から、彼女自身、他人には知られないようにしてきたつもりだったが、養父の忠告以後は完璧に使用を封じていた。これらのことを知っていたのは養父と世話係だけだ。そして彼らはいずれも焼け死んだのに、なぜこの男は知っているのだろう。 「私もそうだ」  ダーネルはオルフェアの警戒を解こうとして言った。 「私は自分で魔術を使えるひとを探していた。私もその一人なのだ。迫害とまでは行かないが、このせいでずいぶん窮屈な思いをさせられた。あなたもそうではないか?」 「………」 「工房ではそのような思いをすることもない。何も隠す必要はないのだ」  オルフェアはため息をついた。目の前の人物は、どういうわけかなかなか諦めてくれそうにない。こちらが「うん」と言うまで動かないかもしれない。それに……どんな場所だろうと、この館よりはマシかもしれない。彼女がいなくなれば、シスターたちは厄介者がいなくなったと喜ぶだろう。そう、今も昔もここでの自分は厄介者でしかないのだから。  オルフェアはダーネルに言った。 「詳しいお話を聞かせていただけますか」  ダーネルは請われるままにさまざまなことを話した。工房の様子、地方での生活など、彼の話すことはオルフェアにとって全く未知の領野だった。新しい世界、新しい知識への欲望を得て、ついに彼女は口にした。 「私で何かお役に立つのでしたら」  ダーネルは微笑んだ。 「自分に自信を持ちたまえ。君には才能がある」  それから、準備に幾日必要かと問われ、「一両日もあれば」と答えるとダーネルは頷いた。 「それでは明日、迎えにきましょう」  彼が帰ってから、オルフェアはシスターを呼んで、ダーネルについてここを出ていくことを告げた。シスターは「それは結構なことでした」と無表情に述べて---目の奥に嬉しそうな気配が見え隠れしていた---あとの片付けはするからいつでも出ていっていいと言ってくれた。  翌21日、ダーネルに伴われ、オルフェアは工房へやってきた。移動には転送円(テレポータ)を使ったので、あっという間だった。 (養父も家人もいない街には何の未練もない)  いっそ何の感慨もなくてせいせいするようだった。 「ここが工房です」  ダーネルは石の通廊を歩きながらオルフェアに言った。 「所長、お帰りなさい」  若い女性が前に現れた。歳の頃は自分と同じようだと、オルフェアは思った。 「ただいま、リズィ。こちらは新しい研究員のオルフェア=メリシェン。応接室にお茶を頼むよ」  ダーネルがそう言うと、リズィは「わかりました」と言って踵を返した。  オルフェアは応接室らしい部屋に通された。先ほどから壁の様子などを見るに、ここは地下のようだ。ダーネルも何も言わないので、黙って分析だけしていたところ、男がお茶を持って入ってきた。男は明らかに蛮族だった。 「……!」  オルフェアは恐怖で思わず身をひいた。蛮族といえば武力腕力をもって市民を襲うものと、相場が決まっていたからだ。 「あっ、ああ、すいやせんお嬢様。あっしは何もいたしやせんから、どうぞお楽になさってくださいやし」  ロルジャーカーはまるで自分が悪いことをしたかのように謝り、そっとお茶を並べた。いつの間にか、リズィもダーネルの横に戻ってきていた。 「この男はロルジャーカーといって、蛮族ですが怪しい者ではありません。工房での雑用などをやってもらっています」  ダーネルはオルフェアに説明してから、お茶に手を付けた。オルフェアもおそるおそるお茶を口にした。お茶っ葉は上等なものだったが、 (煎れ方が間違ってるわ……)  彼女がそんなことを考えているとは思わないダーネルは、オルフェアにリズィを紹介し、リズィにオルフェアの世話を頼んだ。ここがこれから自分の生活する場所になるのだと、オルフェアは改めて周りを見回した。まだ不安でいっぱいだった。  一通り話を終えたところで、ダーネルは、 「実は街にいる間に、護衛によい人材を見つけた。これから街にとんぼ返りしてスカウトしてくるよ」 と、立ち上がりながらリズィに告げた。 「今からですか?」  リズィは少し吃驚した顔で聞き返した。 「せめて明日になさっては……お体を休ませてくださいませんか」 「いや、こうしている間にも、何かあって死なれては困るからな」  ダーネルの口振りからすると、相手はいわゆる「市民」ではないようだ、と、オルフェアは思った。 「そうですか。わかりました。……でもくれぐれもお気をつけて」  リズィはまだ心配そうだった。その視線を背に、ダーネルはふたたび転送円のある部屋へと向かっていった。 3■アルフレッドソン  一組の夫婦がいた。  夫は豊かな領地を持つ裕福な貴族。妻は美しく若い娘。  よくありがちなこの組み合わせは、別の意味でもよくある話だった。夫が高齢で、妻が欲深かったことである。財産目当てに結婚したその妻は、夫の死後、女領主として己の欲のままにふるまった。  その彼女にも一つだけ思うがままにできないことがあった。それは実の息子であった。女の本性を知った夫の親戚たちが亡夫の忘れ形見である一人息子を擁立し、女の専横を邪魔したのである。逆説的ではあるが、嫡子の生母だからこそ、彼女の今の地位がある。それゆえ、彼を盾にとられて女が引きさがることもしばしばであった。  そんな、幸せとはいいがたい環境で成長していった息子だったが、成人も間近なある日、突然、親戚たちから追放を言い渡された。  きっかけはほんの些細なことだった。彼の父とはあまりに似つかない容姿に疑問を抱いた親戚の一人が、半ば妄想のままに発言した一言に、だが、女が動揺を示したのである。そして魔法が使われ、青年は一転すべてを失った。  彼は不義の子であったのだ。  そして、それだけでは済まなかった。  青年が色を失って母を問い詰めると彼女も逆上して口論となり、何故か不意に気を失った彼が次に目覚めたとき、彼は母殺しの犯人となっていた。  体裁と辻褄合わせを兼ねた親戚たちの策謀だった。  そして彼は大切な『魔晶石』すなわち市民の証を奪われ、母殺しという不名誉と、剣奴としての生を与えられることになった……。  117年6月22日。 「アルフレッドソン、お前に客だ」  青年の部屋に部屋係兼見張りがやってきて、そう告げた。青年は無言でベッドから立ち上がり、サンダルを履いて部屋を出た。 「何の客だ」 「知らん。リッシュオットとかいう伯爵様だ」  部屋係はぶっきらぼうに答え、アルフレッドソンを前後に挟んで応接室へ向かった。  今さら貴族なんかが俺に何の用だ。  アルフレッドソンは憎悪と警戒とを胸に、応接室に入った。部屋の中では中年の、そこそこ体躯のいい男が待っていた。 「君がアルフレッドソンだね。かけたまえ」  青年は会釈だけして腰を下ろした。それから、出し抜けに尋ねた。 「何の用だ」 「君を護衛に雇いたい」  質問が直截なら、返答も直截だった。アルフレッドソンは「どういうことだ」と言いたげな視線を男に投げた。  男はダーネル=リッシュオットと名乗ってから、自分が工房を営んでいること、そこの護衛として青年をスカウトしに来たことを告げた。 「……胡散臭い話だな。なんで俺を雇う?」  俺は「母殺し」だぞ、とは口に出さなかったが、彼は疑いの眼でダーネルを睨んだ。 「君の経歴は、失礼ながら調べさせてもらったよ」  ダーネルは彼の視線にも臆さず、訥々と語った。 「実に興味深い。君はこんなところで奴隷の身に甘んじる人間ではないだろう。私の工房へ来れば、仲間として迎えよう」 「仲間?」 「工房内での行動の自由を保障する。立場の対等もな」  アルフレッドソンはこの男の真意を測りかねた。黙って考え込んでいると、ダーネルはなおも話しかけてきた。 「昨日、君の闘いぶりを見せてもらったが、なぜあれほど生に執着するのだね?」  アルフレッドソンは、一言、答えて言った。 「このまま死んでたまるか…!」  ダーネルは満足そうに微笑んだ。 「そうだ。その気概が気に入った。普通の市民は、奴隷に落とされたりしたら、無気力のまま死んでいくのがオチだ。だが君は違う。工房へ来てくれ。悪いようにはしない」  長い沈黙のあとで、ようやく青年が口を開いた。 「待遇は?」 「先ほども言ったとおり、『仲間』として迎える。それだけだ」 「……あんたは胡散臭い奴だが、ここにいるよりはマシだろう。一緒に行こうじゃないか」  アルフレッドソンがそう言うと、ダーネルはにこやかに尋ねた。 「君の今の望みは何かね?」  アルフレッドソンは「『石』…」と、いったん言ってから、「いや、身の潔白を」と言い直した。 「『魔晶石』はすぐに調律できるが、身の潔白は私には如何ともしがたい。自分で力をつけて、自分で証を立てるんだな」 「……いいだろう」  翌日、ダーネルは表向きアルフレッドソンを奴隷として「購入」した。彼専用に調律した『石』を---勝手に『石』を調律して非市民に与えることは法で禁じられていたが---密かに手渡した。そこからすぐに転送円を使い、青年を伴って工房へ帰った。  117年6月23日。  オルフェアが工房入りしたその翌々日、ダーネルはアルフレッドソンを連れて帰ってきた。早速リズィが風呂に入らせた。ロルジャーカーのときと同じく、水風呂を用意してあったのだが、アルフレッドソンはダーネルにもらった『魔晶石』で小魔法(キャントリップ)を使い、浴槽の水をお湯に換えてしまった。 「すごいでやすね、師匠は」  ロルジャーカーはそのようすを見てたまげ、すっかりアルフレッドソンの株を上げたようだった。  こざっぱりしたところで、アルフレッドソンは応接室に通された。ダーネルと、若い女性が一人、座って待っていた。 「かけてくれ」  ダーネルに勧められて、彼は向かいの席に座した。と、ノックの音がして、もう一人、若い女性が部屋に入ってきた。後ろにはお茶をトレイに載せて運ぶロルジャーカーもいた。  アルフレッドソンの目は、今しがた入ってきた女性に釘付けになった。ロルジャーカーが「どうぞ」とお茶を差し出したのも気づかなかった。  ふと目が合って、彼女は恥じらうように俯いてしまった。 (若葉の緑だ……)  その瞳をもっとよく見たいと彼は腰を浮かせかけた、そのとき、ダーネルの声がした。 「みんなに紹介しよう。今日から工房の警備隊長を担当してもらうアルフレッドソンだ」  リズィは(また所長は変なのを拾ってきて…)と、彼を値踏みするように見た。いつもならそうした視線を睨み返すアルフレッドソンだったが、どうしたことか今はそれも気にならなかった。 「君からも自己紹介したまえ」  ダーネルの言葉がふいに耳に入ってきて、彼はようやく我に返った。居住まいを正し、彼は自分の口で名乗りをあげた。 「俺はアルフレッドソン=モロカーゼ。よろしくお願いする」  アルフレッドソンがさっきから目を離せずにいた女性---オルフェアの顔色がサッと青ざめた。彼女は蚊の鳴くような声で、 「わ、私、ごめんなさい、気分が悪いので失礼します…」 と言って、やにわに部屋を出ていってしまった。 「こちらはリズィ。研究主任だ。生活全般のことも任せてあるから、何かあったら彼女に」  ダーネルから紹介されて、リズィは「リズィ=フォア・ローンウェルハです」と、アルフレッドソンに会釈した。  ロルジャーカーも紹介され、仕事内容などの説明も簡単に受けたあとで、アルフレッドソンはとうとう溜まらずに尋ねた。 「ダーネル卿、さっきの女性は?」 「彼女は研究員のオルフェア=メリシェンだが……」  メリシェンという姓には聞き覚えがあった。確か、傍系の親戚にそんな名前があった気がする。では自分とは近しいのだ。 (彼女に工房を案内してもらおう)  アルフレッドソンは自分の思いつきに満足した。彼はロルジャーカーと警備の打ち合わせを簡単に行ったあと、オルフェアの部屋を教えてもらい、そこへ向かった。 (モロカーゼの人間が来るなんて……!)  オルフェアは部屋で沈んでいた。モロカーゼは彼女の養父を告発し、あまつさえ家に焼き討ちをかけた憎い一族だ。 (そんな人と一緒に暮らすなんて……)  耐えられない、と、彼女は思った。だが、だからといってここを出ていくわけにも行かなかった。自分の居場所はどこにもないのだし、昨日の今日で約束を翻すようなことはとても言い出せなかった。  (せめて)と、彼女は思った。(せめてあのひととは言葉を交わさないでいよう。警備ですもの、そんなに顔だって合わさないで済むかもしれない……)  物思いはノックの音で破られた。 「オルフェアさん!」  外からだれか呼んでいる。ロルジャーカーかと思って扉のロックを外すと、そこにはモロカーゼの男がいた。 「オルフェアさん!」 「!!」  オルフェアは咄嗟にドアを閉めていた。  アルフレッドソンは何が起こったのかわからなかった。だが、きっと彼女は驚いたか何かで閉じてしまったのだろうと思い直し、再び彼女を呼び始めた。 「オルフェアさ〜ん」  中から返事はない。ドアも開かなかった。だが彼はめげずに呼び続けた。 「オルフェアさ〜ん」  廊下を通りがかったリズィはその様子を見て、(……こいつ、バカ?)と思ったが、そのまま放っておいた。 「オルフェアさ〜ん」  そのオルフェアはひたすら部屋に籠もって無視しようとしていたが、どれだけ経っても呼び声がなくならない。とうとう溜まりかねて、彼女は再びドアのロックを外した。 「な、何か、ご用、ですか」  情けなくて泣きたかった。  一方のアルフレッドソンは扉が開いたことで、すっかりご機嫌だった。 「オルフェアさん! ここの工房を案内していただけませんか?」 「え?」  オルフェアは言葉を理解するのに時間がかかった。まさか、そんなことで今までノックを……? 「わ、私、私も一昨日ここに来たばかりですから、案内はリズィさんにお願いしてください」  彼女はそう言って身を引こうとした。すかさず、アルフレッドソンは彼女の腕を掴んだ。彼女の顔に脅えが走ったが、彼の恋に狂った目にはそれは羞じらいとしか映らなかった。 「あなたも来たばっかりなんですか! じゃあ一緒に回りませんか?」 「結構です」  オルフェアは腕をほどこうとしたが、なかなかうまく行かなかった。 「そんなことを言わずに一緒に…」 「私はもう昨日案内してもらいましたから!」  オルフェアは腕を引き抜いた。 「じゃあ僕を案内してください」  ニコニコ頼むアルフレッドソンの前で、彼女は叫んだ。 「他の人に頼んで…!!」  そして扉を再び閉めた。 (どうしたんだろう?)  アルフレッドソンはわけもわからず、扉の前に立ちつくした。それからオルフェアを呼んでみたが、扉は二度と開けられなかった。 (なかなか面倒そうだけど……私には関係ないな)  リズィは冷ややかな目で新米たちを見つめた。  この日はそんなふうにして暮れた。 4■恋の病  117年8月。  所員が増えて、工房はすっかり賑やかになった。おもに賑やかにしているのはアルフレッドソンひとりであったが。  アルフレッドソンは暇さえあればオルフェアに会いに来た。オルフェアは避けても避けてもアルフレッドソンがめげずに話しかけてくるので、心底辟易していた。だが、生来の内気さからそれを表に出すことができず、結果的にアルフレッドソンの攻撃を許すことになっていた。  アルフレッドソンは、実験室や研究室にまで現れるようになった。オルフェアが自室にいるときは、決して扉を開けてもらえないとわかったからである。だが、研究の邪魔になるので、さすがにリズィも放っておけず、 「邪魔」 と、邪険に追い払った。  アルフレッドソンはやり方を変えた。彼女が実験室から出てくるまで、表で待っていることにしたのだ。忠犬なみのその努力に、だが、涙を誘われる者はいなかった。行き過ぎだったからである。 「……一度話したら?」  とうとうリズィはオルフェアに忠告した。何も反応を返さなければ、ずっとこのままだと。オルフェアもそれはずっとそう思っていた。  ある日、やはり研究室から研究日報をつけ終えて出てくると、日課のごとくアルフレッドソンが話しかけてきた。 「オルフェアさん、美味しいお菓子が手に入ったんですよ。一緒に食べませんか」 「あ、あの…」  オルフェアは恐る恐るアルフレッドソンを見て言った。 「私、モロカーゼの方とはお話ししたくないんです」 「えっ。どうしてですか?」  アルフレッドソンは吃驚して尋ねた。 「あ、あなた方のせいで、家は焼き討ちにあったんです。だから…」  顔を背けて立ち去ろうとするオルフェアを、アルフレッドソンは引き止めた。 「いつのことですか?」 「…もう半年くらい、前です」 「そうか……僕はそのときいなかったから、知らなかったな」  オルフェアは内心で(なんて無責任な)と呆れていた。彼が手を下したのではないにせよ、「知らなかった」で済まされるものなのか。  彼女は青年を睨みつけた。だがアルフレッドソンとしては、オルフェアに「見つめられ」て、天にものぼる心地になっただけだった。ぼうっとなりながら、彼は言った。 「じゃあ、モロカーゼは名乗りませんから、それでどうです? とにかく一緒にお菓子を食べましょう」  オルフェアはわなわなと震えながら、「お願いがあります」と言った。 「なんです? なんなりと」 「私にもう話しかけないでください…」  泣きそうになりながら、彼女は自室へ駆け戻った。後ろには、呆然とアルフレッドソンが佇んでいた。  話しかけないでほしいと言われて、アルフレッドソンは悩んだ。  愛しい女性の頼みとはいえ、話しかけないなどとは無理な注文だ。 「そんなことを言うなら君が点けた僕の胸の炎を君がその手で消してくれ!」 と、思ったが、言うべき相手が影も形もなかったので、仕方なくその場では胸にしまい込んだ。  彼は悩んだ。そして閃いた。  次の晩、彼はあるアイディアを実行に移した。  夜になってオルフェアが自室に戻ったあと、彼はその部屋の前に陣取り、リュートを鳴らして愛の歌を捧げたのだ。 (これなら話しかけたことにならない)  セレナーデは3晩続いた。  さすがに3晩めになると、リズィもオルフェアが気の毒になってきた。とはいうものの、傍からは手の出しようがない。  オルフェアは、最初はただ吃驚していたが、2晩3晩と続くうちに神経が参ってきたようだった。「やめて」と言いに出て行ったら、それこそ向こうの思うツボだと思うから、やめるように頼むこともできない。ただ、早く終わってくれるように祈りながら、部屋の中で過ごしていた。  4晩めになって、セレナーデは止んだ。オルフェアは安心した。が、本当に外に彼がいないのかどうか、不安でなかなか寝付けなかった。  その後、アルフレッドソンはオルフェアにまたアタックするようになった。オルフェアはますます気の休まらない日々を過ごした。  10日ほどして、もう一度、アルフレッドソンがセレナーデを捧げた夜があった。それはその晩一晩きりで終わった。  だが、翌晩から、オルフェアは不眠症に悩まされるようになった。  117年11月。 「ひどい顔」  実験室でリズィに声をかけられ、オルフェアは顔をあげた。小さな溜息をついて彼女は言った。 「あまり眠れなくて……」 「アルフレッドソンのせい?」  オルフェアはリズィを見上げ、また下を向いた。 「夜中に……ドアの向こうにだれかいるような気がして……眠ろうとしても起きてしまうものですから……」 「本当にひとがいるの?」  オルフェアはゆるゆると頭を振った。こうして会話している間も、彼女はずっと切片の分析を続けていた。 「いないのかもしれません。いえ、いないんでしょうね、きっと。でもそんなこと……怖くて……ドアを開けるのが怖くて……確められないんです……」  数値を表に書き入れながら、オルフェアは震える声で話した。 (重症っぽいな……)  リズィはまた話しかけた。 「きちんと言ったら?」 「……一度、言ったんですけど……」  今度はリズィが溜息をつく番だった。 「とりあえず、これ」  リズィは小さな蝋燭をオルフェアに差し出した。 「安眠できる香りを調合してみたの。使ってみて。夜、寝る前に焚くだけでいいから」 「ありがとう、リズィさん」  オルフェアは蝋燭を受け取り、その場で香りを嗅いだ。 「…カモミール50、ローズウッド20、ベルガモット20、メリッサトゥルー5、シダーウッド……」  ほとんど病的に分析し始めたオルフェアを見て、リズィは(これはダメかもしれない)と思った。  リズィのアロマキャンドルのおかげで、オルフェアも数日間はぐっすり眠れたようだった。が、それも一時のことに過ぎなかった。  アルフレッドソンが恋を語ろうとすればするほどオルフェアの不眠症は重度を増し、オルフェアはますます遠ざかろうとする。が、そうして彼女がアルフレッドソンを避けようとすればするほど彼の恋心は募って、ますます積極的に愛を語ろうとするという、一種の悪循環に陥っていた。  117年12月6日。  オルフェアはダーネルに話があると申し出た。 「話とは?」  応接室でダーネルと向かい合い、オルフェアは勇気を出して告げた。 「私を帰らせてください」  本当のところ、帰る先などなかったのだが、これ以上ここで暮らすのは耐えられそうになかった。とにかくここを去らなければ。  だが、ダーネルはそれに対してうんとは言わなかった。 「どうしてだね?」 「私……アルフレッドソンさんが……」 「いい青年じゃないか。君に好意を持っているようだし---」 「嫌なんです!」  オルフェアはダーネルを遮った。 「彼と、モロカーゼの人間と一緒にいたくないんです! これ以上、もう、耐えられません……!」  それだけ言うと、顔を覆ってさめざめと泣きだした。  ダーネルはちょっと困った顔をしたが、やはり「帰っていい」とは言わなかった。 「君が来てから研究のスピードが倍になった。帰るなどとは言わないでほしい」  オルフェアは泣き止まなかった。 「彼とも仲良くしてやってくれないか。……そうだ、次の休日にみんなでピクニックに行ってくるといい。そこで親睦を深めてくれ。君の話はそのあとで聞くことにする」  ダーネルはそう言って強引に話を打ち切った。オルフェアは目の前が真っ暗になった気がした。  117年12月11日。  ダーネルの予告どおり、この休日はピクニックとなった。天候は冬ながら快晴、豪勢なお弁当付きというのでロルジャーカーは上機嫌、また、一日オルフェアのそばにいられるというのでアルフレッドソンも舞い上がっていた。リズィは与えられた休日を満喫するつもりだった。ひとり、オルフェアだけが気が乗らないでいた。  適当に座れそうな場所を見繕い、お弁当を使ったあとでリズィはアルフレッドソンを水汲みに行かせた。 「もう一度きちんと話してみたら?」  彼がいない間に、リズィはオルフェアに勧めてみた。オルフェアは否とも応とも答えなかったが、リズィにはかすかに頷いたように見えた。  アルフレッドソンが水を汲んで戻ってきたので、リズィは「ロー君」とロルジャーカーを呼んで、あとの二人に言った。 「私たち、ちょっとその辺を散歩してくるから、その間にお茶でも沸かしておいてくれる?」 「……ええ」  オルフェアが答えるそばから、アルフレッドソンは湯を沸かすのにどれを出せばいいかお茶を煎れるのにどれを使うかなど、聞きだしていた。リズィはロルジャーカーとともにその場を離れた。 「これでいいですか」  アルフレッドソンは小ぶりの真鍮のポットを火の上に設置して、オルフェアに尋ねた。 「……ええ」  オルフェアはアルフレッドソンの手元をじっと見るようにして答えた。様子がいつもと少し違うようだ、と、アルフレッドソンも勘付いた。 「どうかしましたか?」 「いいえ……ええ……いいえ……」 「オルフェアさん?」  オルフェアはようやくアルフレッドソンの目を見た。そしていきなり、 「私……父を告発し、焼き殺したモロカーゼの一族の方とはおつきあいできません」  アルフレッドソンは目を瞠った。殺した---焼き殺しただって……? 「告発って、何です?」 「奴隷を……あなたの家から逃がしたって……でも有罪にできなかったから家を焼き討ちに……」  オルフェアはようやくそこまで言うと、泣き出した。  そういえば、と、アルフレッドソンは思い出した。彼が一族から追放されて3ヶ月ほど経ったころ、モロカーゼの家から奴隷が集団脱走するのに成功した話をご丁寧に聞かせてくれた奴がいた(翌日の対戦相手で、彼の気分を凹まそうとしたらしいが、まるっきり逆効果だった)。  奴隷の脱走を許した家など、面目丸潰れだ。ざまぁみろとそのときは気炎を上げたものだが、その傷ついた体面を取り繕うために、傍系の親戚であるオルフェアの父親が犠牲になったらしい。アルフレッドソンには容易に見当がついた。あいつら……あの親族どもならやりかねない。うまく有罪にできなくて、それでも無理矢理責任と汚名を押しつけようと焼き討ちを……。 「申し訳ありませんでした」  最初、オルフェアは空耳かと思った。だが、その声は再び言った。 「本当に申し訳ありませんでした」  驚いて顔をあげると、目の前の青年は首を垂れてまた謝罪した。 「殺したなんて……そんな酷いことをしたとは知らなかった。私がその場にいれば……いや、私も同罪だ。追放されたとはいえ、それまでの年月、あの親族どもが増長するのを野放しにしていたのだから」  アルフレッドソンは初めて暗い顔を見せた。また謝って言った。 「何とお詫びしたらいいかわからない。許してくれとは言いません。だが、本当に申し訳なかった。一族に代わって謝ります」  オルフェアは少しく驚いて、泣きながら目の前の青年を見つめた。青年は「申し訳ありません」と詫びながら、何度も頭を下げた。 「不義の子ではあるが、私も仮にも嫡子の座にいた身、こんな酷い振る舞いをどう謝ったらいいのか……」 「……フギの、子……?」  オルフェアはようやく涙を止めて声を出した。アルフレッドソンは苦い笑いを見せて肯いた。 「私は、モロカーゼの息子ではなかったのです」 「………」 「母が浮気して私を産んだとわかって、親族は私を追放した」 「……ひどい」  アルフレッドソンは首を横に振った。 「それは仕方ない。だがご丁寧に母殺しの汚名まで着せて、私の『石』をとりあげたのは、あなたの家を焼き討ちにしたのと同じやり口のようだ」 「…どういう…ことですか…?」  アルフレッドソンは、これまでの経緯(いきさつ)を---自分が母殺しの罪を着せられ剣奴に落とされたところまでを---簡単に語って聞かせた。  オルフェアの目に新たな涙が浮かんだ。 「…ごめんなさい……あ、あなたも…被害者だったんですね……」  そう言って、はらはらと涙をこぼした。 「被害者だなんて。あなたが受けた苦しみに比べれば、このくらい何でもないことだ。本当に済まなかった」  アルフレッドソンはもう一度頭を下げた。オルフェアは、 「………ごめんなさい」 と、涙声で言うと、両手で顔を覆った。 (彼は、加害者では、なかった)  ようやく心が休まったようだった。 「う〜ん……なんだかよくわからないけど、うまく行ったのかな」  散歩から戻り、木陰から二人の様子を窺ったあとで、リズィは呟いた。談笑はしていないようだが、オルフェアがいつも見せる「逃げよう」とする気配が消えていた。 「姐さん、もう少しお二人にさせてあげやしょうよ」 「そうだね。……その前に」  リズィは遠くからこっそり小魔法(キャントリップ)を使い、ポットでふつふつと沸き立っているお湯の温度を下げた。 「全く世話が焼けるというか……危なっかしくってしょうがない。行くよ、ロー君」  二人は足音を立てないよう気をつけながら歩き出した。  その後も、以前とさして変わりない日々が続いた。  アルフレッドソンは相変わらず、お菓子が手に入っただの、きれいな髪飾りを見つけただのと用事を見つけては(作っては)オルフェアに話しかけてきた。オルフェアは、少し変わった。最初はおっかなびっくりだったが、徐々に彼とも話すようになっていった。二人が食堂で茶飲み話をしている(主にアルフレッドソンが喋っている)光景が、よく見られるようになった。  もっとも、オルフェアは自分の部屋に戻ってしまうとなかなか出てこなかった。また、部屋には絶対に入れてもらえないことを学習したので、アルフレッドソンも食事の前後か研究が終わるころを待ち伏せるようになった。そのころだったら、5分くらい押し問答すれば彼女も断るのをあきらめて、つきあってくれる確率が高いとわかったからだ。  それでもどうしても思いを語らずにいられないような非番の夜には、彼女の部屋の前でリュートをかき鳴らした。はた迷惑ではあったが、手を出して変に事をこじらせたくなかったのと、ダーネルがこの事態を喜んでいる様子だったのとで、リズィも目を瞑ることにしたのだった。 5■ジルウィンとダルフェリル  118年6月4日。  特筆すべきことが何もないまま、一年の半分が過ぎていた。  アルフレッドソンは警備室での監視中に、ここからあまり離れていない場所で戦闘が行われているのに気づいた。 「ダーネル卿、どうします?」  アルフレッドソンは映像をダーネルに見せて采配を仰いだ。  戦闘は、2人の男女対多数で行われているようだった。挟み撃ちにあっている2人のうち、男のほうは巨大な剣を抱えていた。 (……大剣のダルフェリル?)  アルフレッドソンはふっと、闘技場で見知っていた男を思い出した。いや、まさか、そんな。 「あれは10フィートソードだな、珍しい」  ダーネルも男の巨大な剣に注目したらしかった。10フィートソードということは、本当に彼は剣奴ダルフェリルかもしれないと、アルフレッドソンはぼんやり思った。  女のほうを見て、ダーネルの目が輝いた。 「これは……彼女は、鷹族…か? ふむ……」  それから、リズィやロルジャーカー、オルフェアまで呼んで言った。 「この二人を助けて、工房に連れてきてほしい」 「わかりました」  生まれてこのかた、闘うことしか知らずに生きてきた。あれを「生きた」と言えるなら。  彼の父は市民だった。彼も市民の子として生まれた。それを持つだけで、だれもが魔法を使えるはずの『石』も与えられた。だが、『石』との相性が悪いのか、不思議なことに彼には魔術が使えなかった。  父親は、彼の存在を否定した。そんなできそこないを一族から出したことに業腹で、この子どもを殺してしまいたいほどだった。だが、いかにできそこないといえども、すでに戸籍に登録されてしまった以上、子殺しは罪である。  父親は、彼を捨てた。  剣奴として放り出されたそれからの彼は、闘って闘って戦い抜いて生きてきた。殺さなければ殺される、ただそれしか頭にはなかった。  ずばぬけた上背と膂力のおかげで、だんだんと頭角を現すようになった彼に、10フィートソードが貸与された。それ以後、彼は「大剣のダルフェリル」と呼ばれ、闘技場に通っている者なら知らぬ者とてない、人気の悪役剣闘奴になっていった。  あの日も、いつもと同じ一日のはずだった。コロシアムは満杯だった。「獅子心のリッカルド」と「大剣のダルフェリル」の対戦があるというので詰めかけた人びとで、客席はてっぺんまでぎゅう詰めだった。 「出番だぞ」  ダルフェリルは無言で立ち上がった。  ゲートを出たときに、だれかからの視線を強く感じた。異様に思って振り向いたその先には、客席に座る父親がいた。だがその父親は、捨てた子どものことが気になって見に来たわけではなかった。これだけ離れていても、父が自分へ向ける感情はまざまざと感じ取ることができる。 (早く死ねばいい)  その瞬間、ダルフェリルの中で何かが壊れ、また生まれたようだった。  それまでの彼は、ゲームで使われる駒のように、家畜か人形のように、周りから言われるままに戦い、剣を振るうだけの存在だった。新人をなぶり殺しにしてこいと命じられれば、迷わずにそうした。あとでどれだけ嫌な気分に襲われようと、闘技場ではそうするしかないと思っていた。裏で隠れて吐いているそのときも、その嫌悪感が何であるのか、だれに対してのものなのか、何を悼んでいるのかも何一つわからなかったし、わかる必要もないと思っていた。  だが、父親からの憎悪を身に受けて、彼は自分自身の思いに目覚めた。絶望より深く激しい父への憎悪とともに、彼は強く、強く願った。 (オレは人間だ。人間として生きてやる)  彼が脱走の計画を練り始めたのは、そのときからだった。  彼は、数人の信頼できる人間とともに、反乱と脱走の計画を練った。時期を待ち、剣奴としての惨たらしい毎日にも耐えた。脱走すること、それだけが心の支えとなっていった。  近日中に計画を実行に移そうと決まったある日、夜中に天使が降ってきた。  その天使は口が悪かった。 「10分だ、見張りはどうにかしてある、死にたくなければここから早く出ろ!」  これが彼女の第一声だった。  がちゃり。  彼の足下に鍵束が放られた。 「気の合う仲間がいるならそいつらと一緒でもいい。全員が逃げ切れるとは思えないがな」  彼女は言いながらも辺りを警戒することを怠らないでいた。 (見張りをどうにかしてある、だと?)  どうにかしてあると言うからにはどうにかしたのであって、どうにかされてしまった以上は、自分が頼んだのではないなどという言い訳の通用するはずもないのだから、ここに留まるわけにも行くまい。 「……選択肢はなさそうだな」  この機を逃せば、一生ここから離れられないにちがいないと、ダルフェリルは咄嗟に判断した。彼女が何者かは知らない。だが、この場は……話に乗ろう。  決行の日程までにはやや間があったが、もともと造反の手はずは整えてあった。彼は迅速に同志らにつなぎを取り、前倒しで計画を実行に移した。  それまで計画を知らなかった者たちまで巻き込み、打ち合わせてあった通りにそれぞれがばらばらな方角へ逃げだした。追っ手を分散させるためだった。互いに互いの幸運を背中で祈りながら、蜂の巣をつついたような騒ぎのコロシアムから、外に出た。  彼女はダルフェリルについてきた。  もとよりダルフェリルも彼女を連れてゆくつもりだった。これが罠ではないという確証はなく、そうであれば引き金を引いた自分がその責任を取らねばならないと覚悟していた。  だが、彼女は彼を守り続けた。戦士としての力量は彼を上回り、そのうえ魔法も使いこなした。 (なぜだ? なぜ俺を助ける?)  追っ手を引き離し、いったん休むを得るまでには少々時間がかかった。ようやくまともに座って休んだある夕方、ダルフェリルは彼女の名を尋ねた。彼女は、 「私か? ジルウィンだ、ジルでいい」 と言ったあと、遠くを見ながら「まだ追っ手がかかっているようだからな、しばらく同行させてもらうことにする」と淡々と語った。よくそうして遠くを見るようにするが、彼には見えない遠方も本当に見えているみたいだった。ジルウィンは視線をダルフェリルに戻した。 「魔術の心得と戦士としての技量が多少ある。足手まといにはならないと思う」  そんなことはわかっている。わからないのは別なことだ。ダルフェリルは、ずっと疑問に思っていたことを口にした。 「なぜ手を貸す? 魔法が使える、剣の実力もある。サーランドで生きていくのに不足はないはずだ。なのにわざわざ逃亡の手助けをして、あまつさえ首謀者と一緒に逃げる。…目的は何だ?」  明るいブラウンの瞳にじっと見据えられて、彼女---ジルウィン=ミアフーフェアは少し困った顔をした。 「何故手を貸したかって聞かれてもなぁ……私はあなたに生きて欲しい、理由はそれだけだ」  ジルウィンはそう答えた。 「あなたは他の人間たちと逃げる算段をたてていただろう? 逃げたい者をついでに逃がしただけだ」  彼女の表情は真剣だった。嘘など何一つないとわかる。だが、ごく一部の者しか知らなかった脱走の計画を、なぜ彼女が知っていたのか……。 「どうやら何でもお見通しらしいな……。だがなぜ俺を知っている? それにどうやってこの計画を知った?」  そう言ってみたものの、今さらなことだとわかっていた。それで続けて言った。 「……まあ、いいか。俺を殺すつもりならいつでもできるだろう。今すぐでも、寝ているときでも。そして俺にはそれを防ぐ手段はおそらくないわけだ。こっちのことはどうやら筒抜けのようだしな」  彼はそこまで一気に語ったあと、最後に速度をゆるめて口にした。 「君を信じよう」  言ってしまって、すっきりした気分になっている自分に気がついた。不思議だった。ジルウィンは少し嬉しそうな顔をした。それを見て、ダルフェリルも安心した。これから二人で---一人ではない、二人で逃げるのだと思うと、心に力が湧いた。  何人、屠ったかわからなかった。諦めればいいと思う間もなく、新たな追っ手が現れる、日々その繰り返しだ。そうしてここまで来た。危険で知られる「恵みの森」。だが、搦め手は執拗に伸びてきた。 「お前もここで終わりだ、『大剣のダルフェリル』」  かすれた声でその剣闘奴は呼ばわった。自分とほぼ互角の剣闘奴が前方に4人、アンバーゴーレムを引き連れて殺気を漲らせている。気がつくと、背後も4体のウィングウォリアーで抑えられていた。 (挟み撃ちか……いや、余計なことは思うまい。今までと同じ、全滅させるだけだ)  ダルフェリルはジルウィンと背中合わせになると、10フィートソードを青眼に構えた。背後から伝わるジルウィンの緊張が、彼女の存在を感じさせて心地よかった。  ジルウィンはファイヤーボールの呪文を唱え、ゴーレムを中心に剣闘奴たちを炎の洗礼にかけた。その反対側では、ウィングウォリアーがダルフェリルを攻撃せんと移動してきていた。ダルフェリルは一歩、前に出た。そのとき、ウィングウォリアーのさらに背後から、人の気配が立った。 (新手か……!)  咄嗟に思った。人数は4名か5名かそこらだろう。忌々しく感じる彼に、その新手から声がかかった。 「助太刀するぞ、『大剣のダルフェリル』!」 「だれだ!?」 「話はあとがいいだろう」  男の台詞は正しかった。ウィングウォリアーの集中攻撃を受ける間、ダルフェリルは新手に構う暇がなかった。  リズィはほどよくローストされた剣闘奴たちを遠目に認め、ホールドパーソンの呪文を唱えた。リーダー以外の剣闘奴たちは、皆、固縛(ホールド)されて動けなくなった。オルフェアは、その残ったリーダーにチャームパーソンを飛ばした。今度はリーダーも抵抗できなかったようで、オルフェアに魅了(チャーム)された。 「あの、この人たちは私の友人なんです。攻撃をやめていただけませんか?」  オルフェアが声をかけると、リーダーは「そんなことを言われてもなぁ、こいつらを殺らないと俺たちが処刑されちまう……」と、困ったような目で彼女を見た。 「では相談しませんか。こちらにいらしてくださいな」 「おう、わかった」  リーダーは剣を納めるとオルフェアたちのほうへ歩き出した。  この間、ダルフェリルはウィングウォリアーを2体沈め、ジルウィンは剣闘奴側にいるアンバーゴーレムに攻撃をたたき込んでいた。あとから加勢に入った男---アルフレッドソンは、戦況を見てジルウィンの援護に回った。ロルジャーカーは射撃をしやすい位置に移動し、身を潜めた。 「お、おいおい、困るぜ。俺たちのゴーレムをあんたの友人とやらが壊してるじゃねえか!」  リーダーはふと足を止めて、オルフェアに抗議の声を挙げた。 「あら……でも、ゴーレムのほうが攻撃してきたんでしょう」 「困るんだよ。壊したりしたら、俺たちが無事じゃ済まなくなっちまう」 「困りましたね。じゃあ……みんなで一斉に攻撃をやめるっていうのは?」  二人がうろんな会話を交わしている横で、ダルフェリルは残りのウィングウォリアーを葬り去り、ジルウィン、アルフレッドソン、ロルジャーカーの攻撃でアンバーゴーレムも崩れ落ちた。 「ひ、ひぃっ! 冗談じゃねえ…!!」  リーダーはゴーレムが崩落するのを見て仰天した。そのまま脱兎のごとく逃げ出した。  「まずいですよ、所長、一匹逃げます!」リズィは思わず目の前にいないダーネルに向けて小さく叫んだ。どこからか彼の声がした。 「うむ。私がやろう」  轟音とともに天空から数多の礫が飛来した。木々の梢を貫いてなお勢いは止まず、大気を焦がしながら逃げる剣闘奴を背中から撃ち貫き、地をも抉った。男の肉体だったものは一瞬、塵のように舞って、地面に叩きつけられた。地形ですらこの変わり様。死体ももはやヒトとしての原型を留めていないだろう。 (メテオスウォームか……!)  その場に残った人々は驚きを隠せなかった。流星を飛来せしめ敵をうち砕くこの呪文は、大魔術師と呼ばれる魔術師たちでさえ手が届かない、彼らがさらに倍以上の研鑽を積んでやっと手に入れられるもので、滅多にお目にかかれるものではなかった。アルフレッドソンやオルフェアは改めてダーネルの実力を思い知り、ダルフェリルとジルウィンは無気味な援護者の存在を知った。 「所長、やりすぎです…」  リズィだけがごく冷静に振る舞っていた。ダーネルが「済まんな」と答えるのが聞こえた。 「久しぶりだな、ダルフェリル」  ダルフェリルは声をかけてきた若い男を見た。そして思い出した。 「『親殺しのアルフレッドソン』か!!」 「覚えていたか」  アルフレッドソンは久しぶりに聞く通り名に、苦笑しつつ答えた。ダルフェリルは、闘技場で一時期一緒だった青年に尋ねた。 「こんなところで何を……?」 「俺は今、この近くの工房で警備を担当している。そこの工房の主がお前たちに会いたいそうだ。助っ人に来たのも、所長が助けてやれと言ってくれたからだ。一緒に来て、彼に会ってくれないか」  ダルフェリルとジルウィンはそれを聞いて、声にならない会話を交わした。 (……どうする、ジルウィン?) (ダルダルさんに任せる)  ダルフェリルは悩んだ。工房の主とやらが、何をもって自分たちに会いたいと言っているのか、不審だった。だが、と、彼は思った。 (ずっと野宿続きだ。せめて一晩でも、床の上で休めればジルウィンも楽だろう。それに、アルフは悪い奴じゃなかった。少々変わったところはあったが、信用はできると思う)  彼は、そして彼女は心を決めた。 「わかった。連れて行ってくれるか」 「ああ、こっちだ」  ダルフェリルとジルウィンは、アルフレッドソンたちの後について工房へ向かった。  工房で二人はまず、半ば無理矢理に風呂に入らされた。リズィはダルフェリルの臭いに耐えられなかった。彼女はまた、自分たちの衣服から適当な着替えを見繕い、身体の汚れを落としたあとで彼らを着替えさせた。  逃亡生活の不自由さに慣れっこだった二人も、数ヶ月ぶりにこざっぱりした格好ができて、少し嬉しいようだった。二人は応接室に通された。先ほどの戦闘に加勢してくれたリズィ、アルフレッドソン、それから初めて会う壮年の男が待っていた。どうやら彼がここの主らしい。  男は自らをダーネル=リッシュオットと名乗り、二人に好奇の目を向けてきた。 「それは10フィートソードだね。初めて見た」  研究所を主宰するだけあって知識も豊富なようだ。ジルウィンが鷹族であることも、彼には最初からお見通しだった。  お茶が運ばれてきて、ロルジャーカーとオルフェアもその場に加わった。 「ここで一緒に働かないか?」  ダーネルはダルフェリルらに誘いの言葉を投げて寄越した。ここにいれば逃亡生活に終止符を打てるという魅力的な申し出のあとで、工房で行っている研究の話などを聞かされた。 (………)  ダルフェリルもジルウィンも迷った。アルフレッドソン以外は本当に出会ったばかりで、この工房がプラスとなるかマイナスとなるかは、彼らにはまだ判断がつかなかった。だが、このまま拒絶して出ていくのも躊躇われた。逃亡生活は十分に長かった。二人ともかなり疲弊しており、互いにそれがわかっていた。 (相手を休ませてやりたい)  お互いにそう思い、その気持ちを伝えあった。 (とりあえず今晩は、建物の中で寝かせてもらおう)  ダルフェリルはそう決めて、「一晩、考えさせてほしい」とダーネルに頼んだ。ダーネルは構わないと答えた。  落ち着いたところでジルウィンが「お腹が空いた」と口にしたので、ダーネルはオルフェアに台所からお茶菓子を持ってきてくれるよう頼んだ。そのあとで、彼はリズィに尋ねた。 「部屋はどうなっているかね?」  リズィが、今はアルフレッドソンとロルジャーカーが二人で一部屋、あとは自分とオルフェアがそれぞれ一部屋ずつ使っていると答えると、 「彼らの部屋を作らねばならんな」 と、少し考え込むようにした。  お菓子の皿を載せたトレイを手に、オルフェアが戻ってきた。見るからに高級そうな、味の良さそうなお菓子だったが、彼女がそれをテーブルに置く前にダーネルが話しかけた。 「ずいぶん仲良くなったようだから、今日からアルフレッドソンと一緒の部屋ではどうだね?」  トレイが彼女の手を滑り落ち、がらんがちゃんという音響とともにお菓子が床に散乱した。 (あ、もったいない…)  その場の全員---オルフェアを除く---が同時に思った。  オルフェアの青ざめた頬に涙が伝った。彼女は顫える声で、「そ、それは、ご命令ですか」と聞いたようだった。「どうしてもと仰るなら……」と言ったきり、あとは言葉にならずさめざめと泣いた。 「いやー、所長、あんな馬鹿と一緒はかわいそうですよ」  さすがに見かねて、リズィが助け船を出した。 「彼女は私と一緒の部屋に」 「そうか」  ダーネルは残念そうに言った。  ダルフェリルは(変な人間関係だ)と思った。ジルウィンは人間関係よりも、床に落ちて食べられなくなったお菓子のことが残念でならなかった。一通り話がついて、所員の部屋の移動が終わってから、二人は一室に通された。 6■荼毘 (どうする?)  ジルウィンとダルフェリルとは、声も出さずに会話を続けた。  彼らは、精神結合を果たしており、常に相手と心が通じ合った状態にあった。  ダルフェリルはふと、これまでの長い逃亡生活を思い出した。  ジルウィンの剣が一段と冴えてきた逃亡生活のさなか、彼女が明らかに焦りだしたことに、ダルフェリルも気づいた。困った顔をして、よく天を仰いだりしている。だが、どうやらそれは追っ手のことではないらしかった。  ある日、彼女はダルフェリルに相談をもちかけてきた。 「あのぅ…、そのっ…困ったことになったんです」  ダルフェリルが目を向けると、彼女は頬を染めて言った。 「う〜…。つまりなんだ、私は鷹族だから……成人の儀式をしないと…いけないんだ。何でもする、言うこと聞く、あなたを守る……だから私と『つがい』になって欲しい」  はっ、と気づいて、彼女はぱーっと赤くなった。耳たぶまで真っ赤にして、 「いや、あの、違うっ、結婚とかとは違うんですっ!」  彼女がこんなにうろたえる姿は、これまで見たことがなかった。いつものびやかで、戦闘のときは神々しく、ものを言うときは一刀両断、相手を斬るように振る舞う彼女が……? 「ちゃんとあなたが安全なところへ行ったら繋がりは切るつもりだし、そうでなくてもだれか娶るようなら、都合が悪いだろ!? 悪いんだ、だからちゃんと切るから、え〜と……」  ダルフェリルが無言で聞く姿勢を示していると、ジルウィンはさらに説明した。彼女のいう『つがい』とは、鷹族が成人するための儀式である。一種の精神結合で、これまでに女神エオリス以外と繋がった例はない。だが、彼女にとってはダルフェリルでないといけない理由があり、ダルフェリルは気持ちの悪い思いをするだろう、ということだった。 「…べつに構わないが?」  ダルフェリルは本心から、こだわりなく答えを返した。 「唯一の例外になってみるのも面白そうだ。気持ち悪いっていってもこの逃亡生活、そんな感覚には事欠かないからな。ひとつふたつ増えたってどうってことないだろう。俺じゃなきゃいけない理由があるんだろ? 結婚する予定も今のところないしな。相手もいないし。切りたくなったらでいいよ 」  ジルウィンはダルフェリルのことをじっと見つめていたが、やがて「…うん」と頷いた。  儀式の準備はたいへんだった。適当な場所を見つけるところから始まって、聖別したり浄化したり、丸三日かけて準備した。本番では12時間もの呪文詠唱が待っていた。  それでも儀式は滞りなく進行したらしかった。ジルウィンから、魔法陣のようなものの内側へ決まった位置から入るよう促されて、ダルフェリルは慎重に足を進めた。  光が自分の中をゆっくりと通り過ぎるような感覚がして、なぜそうとわかるのかわからないが、「彼そのものを写し取った何か」が、微細な光の粒となってジルウィンを取り囲むのが見えた。  同時にジルウィンを光が通り過ぎ、やはりジルウィンの中身を写し取った何かが細かい光の粒子となってダルフェリルを取り囲み、そっと彼の中へ入ってきた。それは、ジルウィン自身ではないが、彼女という存在に限りなく近いもののようだった。ダルフェリルはそのとき、心からそれを受け入れた。  途端に、ジルウィンの生まれてから現在までの視界と感情が雪崩のように押し寄せてきた。  雲の上の世界で生まれ、教育された彼女が、ある日、いたずら心から地上をのぞき見てしまったこと。ちょうどそのとき、幼いダルフェリルが親に捨てられる瞬間を見てしまい、幼人には禁忌だったにもかかわらず、その後も彼を見続けていたこと。  初めは「教えてもらったとおりのヒドイ人間たち」にさえ捨てられた彼への同情だったのに、ダルフェリルが辛い目に遭いつつも生きていく姿を見ているうちに、何も手出しのできない自分に苛立ちを覚え、応援したい友人のような感情に変わっていったこと。  成長するにつれ、それがどんどん複雑な好意の感情に変化していき、恋と呼べるようにまでなったころ、翌日の剣闘でダルフェリルが死ぬヴィジョンを予見してしまったこと。  どうにもできずに、彼が死んでしまうことに耐えかね、武装して天からサーランドのコロシアム内部に直接降りたこと。ダルフェリルと会って、彼を助けるために同行を決意したこと、そのときにもはや天へ還ることはないと覚悟したこと。  彼女の想い……彼女を動かすもの……彼女の目的は、ダルフェリルを、自分を、安全な地に送り届けて平和に幸せに暮らしてもらうことだけ。ジルウィンはダルフェリルを、自分を、心の底から愛しているけれど、ジルウィン自身が愛し返されようとは思っていないから、それを求めようなどと大それたコトも思わないから、ただ、ダルフェリルが、自分が、どこかの村で好きな娘と結婚して幸せに暮らしてくれればいい、ジルウィン自身は泡沫と消えてもいいと、願うのはひたすらにダルフェリルの、自分の、幸せだけであった。  ジルウィンの知識はまた、ダルフェリルにこの儀式の重さを知らせた。「成人の儀式」は自分のすべてを捧げるもの。だから、心からそうでき得る最高のひとりにしか行使できない。儀式をできないでいれば、じきに消滅してしまう。儀式をしても、それに失敗すれば同じ結果が待っている。「泡沫と消える」とは、比喩でもなんでもない、厳然たる事実となるべきことなのだ。  ジルウィンの記憶は、現在により近い彼女の想いまでダルフェリルに伝えた。予定外に道行き途中で成人してしまったことの躊躇い。儀式で運良く受け入れてもらったとして、彼への自分の執着をさらけ出すことになって気持ち悪いと思われないだろうか、思われるのは仕方がないが、それによって今まで培ってきた幸せな関係が崩れるのはイヤだなと思う、不安と迷い。女神エオリス以外の相手に試した者がいないとされる儀式を、人間相手に行って、万一ダルフェリルに何かあったらどうしようという苦悩。  そして、結局、彼女はダルフェリルにとって剣で盾、今いなくなれば彼の生存確率が下がるのだから、と、最後までダルフェリル……自分を思って儀式に踏み切ったこと。  ダルフェリルは黙して立っていた。彼は、流れ込んでくる大量の想い、記憶、蓄積された情報を受け止め、自分の中に整理してしまおうとしていた。  突如、彼は笑い出した。楽しくて仕方ない、そういう笑いだった。自分が笑われたのだと思って、ジルウィンは顔を赤らめ、むくれた表情をしてみせた。  ダルフェリルは笑い止んで言った。 「君が初めてだ。俺を受け入れたのは。命をかけてここに来た? 俺のために?」  彼は優しい目を彼女に向けた。 「そうか、では俺はそれに応えるべく生きなくてはならないな。もらった命だ。どうせならジルウィンのために生きることにする。こういうのは男がするものだと聞いたな。では今しよう。神が俺たちを分かつまで、君のそばにいさせてほしい」  ジルウィンは一瞬きょとんとした。少しして、ダルフェリルが本気であるのを見て取って、 「……うん、私も……あなたのそばに、いたい。……あなたを愛しています」  そう言うと、すっと息を吸って歌い出した。それはダルフェリルが今まで聞いた中で一番丁寧で、一番穏やかな歌だった。求婚に応じる歌だというのは、あとで彼女から教えてもらった。  ジルウィンの髪が淡黄褐色から、黒へと変わり、拡げた翼も暗青色に染まっていった。儀式の完成だった。  以来、彼らの心は通じ合っていた。相手の感情も知ることができるし、自分の思いを伝えることもできる。二人の間に言葉は不要だった。  彼と彼女はしばらく心で話し合った。  そうして、様子を見がてら、暫くここにいてみることに決めた。  翌朝、呼ばれて食堂へ赴いた。ジルウィンたちは知らなかったが、今朝の朝食は、いつものようにロルジャーカーでなく、オルフェアがダーネルに頼まれて作ったものだった。ジルウィンの舌はすっかり満足したようで、工房に暫くいようという決意はさらに固まった。 「ダルフェリルです。こちらは妻のジルウィン。よろしくお願いする」  朝食後に、ダルフェリルは、ここにいさせてほしい旨を表明した。「ただし」と、彼は条件を付けた。「ジルウィンを実験材料にするのは、絶対にやめてもらおう。」  ダーネルが一通り全員の紹介をしたあと、ダルフェリルはアルフレッドソンに連れられて、警備の仕事の説明を受け、そのまま実務に就いた。  ジルウィンはまずリズィが引き受けた。どの仕事をさせようかと、 「何ができるの?」  彼女がそう尋ねると、ジルウィンは「うーん」と考えてから「昼寝ができる」と答えた。リズィが投げる質問にはほとんどこの調子で答えたので、リズィは諦めてオルフェアにバトンタッチした。  オルフェアは子どもに対するように、字は読めるか、どの言語がわかるか、算数はできるか、実験器具は扱えるかなどを、実際に試しながら聞いていった。そうやって一つ一つ根気よくデータを収集していくさまは、彼女が常日頃、実験へ示す姿勢と変わらなかった。ともあれ、読み書き算盤に問題なく、手先も器用そうだとわかって、ジルウィンには簡単な仕事から任せていこうという話に落ち着いた。  118年6月15日。  ダーネルの薦めで、親睦を深めるために一同はピクニックに出かけた。ダーネル自身は工房に残ったので、6人で森の中を歩いた。  天気も気温もほどよく(ダーネルが魔法で調整したのかもしれない)、お弁当を提げての道行きは楽しかった。  アルフレッドソンはご機嫌で---それはそうだろう、丸一日オルフェアといられるなど滅多にない機会なのだから---歩いているうちから歌を歌い出した。「娘さん、窓をあけておくれ、俺の手には黄鹿の肉とワインがある」などといった巷の流行りの恋歌を次々と披露していたが、それに対抗してジルウィンが聖歌を歌い出した。 (五月蠅いなぁ。どっちかにしてくれないかしら)  リズィはちょっと眉をひそめた。恋歌と聖歌とでハーモニーが生まれるはずもない。オルフェアは困り切ったような表情でアルフレッドソンの横を歩いていたが、彼を止める力はなかったし、ダルフェリルはジルウィンが楽しければ他は何も頓着しなかったので、不協和音はお弁当の時間まで続いた。不協和音をかきたてながら親睦を深めるというのも、妙な話だった。  だが、それ以外はごく平和に、楽しい時間が流れた。  食後に、もう一杯ずつお茶を沸かそうと、オルフェアはすぐそばの渓流まで水汲みに出かけた。当然、アルフレッドソンのおまけ付きだった。最近では諦めきっていたので、彼には好きなようについて回らせていた。だが今日はそれが幸いした。 「オルフェアさん!」 「きゃっ!」  いきなりアルフレッドソンに押し倒されて、あわやと思ったオルフェアの耳に、ドッと何かが突き立ったような音とアルフレッドソンの小さな呻きが聞こえた。 「なっ、何が…?」 「怪我はありませんか」  アルフレッドソンはなおもオルフェアを庇いながら、川向こうに視線をやった。木の陰に弓をつがえた蛮族がいるのが見えた。  ちょうど同じころ、リズィたちも蛮族に囲まれていた。 「お前だろ『大剣のダルフェリル』ってのは。賞金がかかってるんだ、悪く思うな」  蛮族のリーダーらしき男が喋るのを聞いて、リズィは綺麗な顔をしかめた。ダルフェリルにこれほどネームバリューがあろうとは思っていなかった。あとで対策を考えなければ……。 「相手は4人だ。やっちまえ」  数を恃みに襲いかかる蛮族を、呪文と剣と弓とが迎え撃ち、呆気ないくらい短時間に勝敗はついた。 「向こうの二人は?」  たぶん大丈夫だろうと思いながら、念のためにリズィが川そばへ向かうと、ちょうど2人の蛮族が川向こうを逃げていくところだった。2名はすでにほとりで息絶え、赤い墨染めの模様を川面に散らしていた。 「オルフェア、大丈夫?」 「ええ、大丈夫だと思います」  オルフェアは向こうを向いたまま答えたあとで、マジックミサイルを放った。5本の嚆矢が飛んで、蛮族2人はその場に倒れた。  結局、負傷したのはアルフレッドソンだけで、それもオルフェアがその場で治療できる程度だった。この、野暮な邪魔立てのあとで一同は場所を変え、もう少し休日の時間を楽しんだ。死体の始末はあとでゴーレムにやらせればよい。彼らは夕方になるまで森で過ごし、それからゆっくり研究所に戻った。  蛮族の茶々入れは別なところで影響を与えた。用心のために、ダルフェリルは当分の間、外出を禁じられた。もっとも、彼はジルウィンと一緒にいられれば他はどうでもよかったので、それを不自由と思ってはいないようだった。  118年6月22日。  ロルジャーカーは、ちょうど警備室を見回りに来たリズィに告げて言った。 「姐さん、最近この男をよく見かけるんですが」  監視装置に映し出されたのは、40歳代の男だった。ウッドゴーレムを連れている。映像が遠くて魔晶石まではしっかり見えないが、当然、魔術師だろう。 (下級官僚っぽいな)  リズィはひと目見てそう思った。だが、それよりも男が何かを探索しているような様子であるのが気になった。 「いつから?」 「ここ二日ぐらいでさね。ああしてこの近辺を徘徊しているんで」  リズィは他の人間も警備室に呼び集め、だれかの知り合いではないか首実検させた。 「知っている」  ダルフェリルが淡々と口にした。あの顔を忘れるわけがない。 「魔法が使えないって、俺を捨てた奴だ」  それは、ダルフェリルを捨てた、ダルフェリルの父親ギル=ランバートだった。してみれば、ダルフェリルを探しにきたとしか思えなかった。 「所長、どうします?」  リズィはまずダーネルに尋ねた。 「君はどうなのかね?」  ダーネルはダルフェリルに問いかけた。実の父親だから、助けたいのかどうか、ということだった。ダルフェリルは即答した。 「あんなやつ、父親とは思っていない。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」 「本当にいいのね?」  リズィは念を押すように言った。ダルフェリルは肯いた。「奴には憎しみしか思い出せない。」 「一気に片をつけます」  リズィはダーネルに向き直った。ダーネルは軽く肯くと、「頼んだ」と言って全員にヘイストの呪文をかけた。 「見つけたぞ」  ギル=ランバートは疲れたような声でそう言った。 「お前のせいで一族すべてが酷い目に遭っている。どうしても死んでもらうぞ」 「死ななければどうする」  ダルフェリルは嘲笑うように、あるいは自分を奮い立たせるように、父親であるモノに聞いた。 「お前が死ななければ、妻も子もみな市民権を剥奪される。死ぬより辛い思いを味わうのだ。少しでも申し訳なく思う心があるなら、ここで死んでくれ」  ギルは顔色も変えずに言い放った。その言い様に、ジルウィンは静かな怒りを覚えていた。いつもいつも、この男はダルダルさんを傷つけてきた。これ以上は赦さない。 「生憎だったな。俺は生きたい。お前なんかに殺られてたまるか」  息子からの返答に、ギルの瞳はますます翳ったようだった。 「……お前のような不良品は生まれてくるべきじゃなかった。さっさと殺しておくべきだったんだ」  そうして疲れたように言葉を吐き、ウッドゴーレムに攻撃の指示を与えた。  ダルフェリルとジルウィン、それにアルフレッドソンはギルに向かって駆けだした。リズィは対魔法用に、ギルの周囲にサイレンスをかけた。ロルジャーカーが弓を射、そのあとでオルフェアがマジックミサイルを飛ばすと、ギル=ランバートは瀕死になりながら、マッドゴーレムを呼び出した。  続いて戦士陣のアタックと、オルフェアの2本目のマジックミサイル、それにロルジャーカーの弓矢で、ギル=ランバートはあえなく沈んだ。残ったウッドゴーレムとマッドゴーレムも、1分以内に片づいた。あっという間の出来事で、感傷の生ずるひまも無かった。  ダルフェリルは死体を検めた。リズィがディテクトマジックで見たところ、ギルは魔法の指輪を2つ指に嵌めていた。それらの遺品はひとまずダルフェリルが預かった。  リズィは思いついて、ギルの遺体にスピークウィズデッドの呪文を唱えた。 「どのくらいここのことが知られているのか?」  彼女の質問に答えてギルの霊は言った。 「この辺りにある研究所に、我が息子、罪人ダルフェリルが潜伏しているとのウワサだった」  まずいな、と、リズィは胸の中で舌打ちした。続けて尋ねた。 「お前が帰らないと家族はどうなるの?」 「市民権剥奪だ……かわいそうな我が妻と子どもたち……お前という不良品を産んだばかりに……」  どうやらギル=ランバートの家族は囚われており、ギルは家族の市民権、すなわち命をかけて、ダルフェリルを追うために財産をすべて処分したらしかった。  壊れたゴーレムの処分は研究所のボーンゴーレムに任せ、ギル=ランバートの遺骸は明朝になったら(もう夜に近かったので)焼いて灰にするよう、リズィはダルフェリルとアルフレッドソンに指示を出した。ダルフェリルは無表情に肯いただけで、その心中はジルウィンにしかわからなかった。  翌朝、ダルフェリルはアルフレッドソンらに手伝ってもらって、簡単な木組みを作ってギル=ランバートの遺骸を燃やした。中年というべき年齢でありながら、「老いた」としかいいようのないその細身の躯体は、白煙をあげてよく燃えた。  自分を捨て、その死ばかり願っていた、憎い、憎い父親。その憎しみに偽りはなかった。自分を最後まで人間と認めず、ジルウィンと掴んだこの小さな幸せを壊しにやってきた男。俺を人でない不良品というならお前はなんだ、お前こそ自分の体面だけで頑是ない子どもを捨てる、獣以下の人間じゃないか。  眼前の炎と一緒に、鎮めたはずの怒りが再び燃え上がった。  だが、お前は今はただの死人だ。これでもうお前に心を乱されることはなくなったんだ。忘れてやる、お前のことなんか。  そうやって吐き捨てる一方で、ダルフェリルは泣きたかった。自分の心が声をあげて泣いている、それがジルウィンに伝わってしまっているのもわかっていた。 (ごめんな、ジルウィン。こんな気持ちを伝えちゃって……。今夜、君の腕の中で泣いてもいいだろうか)  荼毘の場から離れた研究室では、ジルウィンが涙を止められないでいた。父親でありながら、最後の最後までよくも彼を傷つけて逝ったものだと、彼女はぼんやり思った。切なさと悲しさと、それを分け与えてくれるダルフェリルへの愛でいっぱいになりながら、彼女は暫し涙に暮れた。 「所長、まずいですよ。彼をおいておくなら、ウワサを消すなり、何か手を打たないと」  ダーネルはリズィの進言を入れて、入り口に幻術をかけることにしたと言った。それから皆を集め、不便ながら今後は許可なく出歩かないようにと言い含めた。こうして工房は外出禁止となったのだった。 7■婚礼  118年9月。  ギルの事件があってから3ヶ月ほど経過したある夜、アルフレッドソンはオルフェアと食堂で茶飲み話を(一方的に)していた。ふと灯りがちかちかしたかと思うや、いきなり消えてしまった。 「あら?」  オルフェアは驚いたが、すぐ手元にあった湯呑みにコンティニュアルライトの魔法をかけ、その場を明るくした。  廊下の方でガタガタと音がして、他の4人も食堂にやってきた。 「何してるの、あなたたち」  リズィが先客に気づいて声をかけてきた。 「珍しいお茶を飲んでたんですよ」と、アルフレッドソンが悩みの欠片も見あたらない明るい声で、即座に返した。「なんでしたっけ、そうじ茶?」 「…あの、ほうじ茶です」  オルフェアはおずおずと困ったように訂正を加えた。 「それよりどうしたんですか?」 「灯りが消えたでしょ。何かあったみたいで、所長に集まるように言われたの」  その所長もやってきた。工房全体で、魔力の供給が突然途切れたという話だった。灯りはもちろんすべて消え、魔力を動力としている仕掛けもすべて動かなくなっていた。食堂の扉は半開きだったから動かさなくてよかったが、自室から出るのに戸を開け閉めするのがまずたいへんだという話だった。 「大もとの魔晶宮からの供給がこの地域全体で切れているのだろう」と、ダーネルは言った。  魔晶宮とは、この世界における魔力供給システムの機関名である。一番大元の魔晶宮はジェネレータで、需要を遥かに上回るスピードで魔力を生成し、供給していた。自らも魔力で動いていたため、それが停止することはないとされていた。そこから各地に置かれている中型の魔晶宮へ魔力が送られ、中型の魔晶宮から市中その他に設置された小型の魔晶宮へと魔力が送られ、さらに市民の持つ『魔晶石』に供給されるという構造になっていた。ダーネルは、この中型の魔晶宮が、現在使用不可能になっているのではないかと言ったわけである。 「蛮族にでも襲われたか……一時的なものだとは思うが、今後は内部で魔力を供給できるようにしなければならないな」  ダーネルは簡単に状況を説明したあとで、「寒いだろうから、今晩はここで皆で暖を取るようにしてくれ」と言って自分はいずこかへ引きあげた。 「ここで何をしていればいいんだ?」  ジルウィンが尋ねた。 「暖を取れって所長がおっしゃったでしょ」 「暖めあえばいいんだろう? そんなのは二人で十分だ。ダルダルさん、部屋に戻ろう」  ジルウィンはそう言って、ダルフェリルとともにさっさと自室へ戻ってしまった。リズィは一つため息をついたが、「それもそうね」と、自分も彼らに倣うことにした。 「私たちもあっちで暖を取ろうか。ロー君、行こう」  リズィはロルジャーカーを誘いつつ立ち上がった。 「えっ、リズィさん、行っちゃうんですか?」  オルフェアが意外そうに尋ねた。 「ダーネルさんはここで暖を取れって……」 「うん、でも暖を取れればいいわけだから。私たちも部屋に行くわ」 「え。で、でも……」 「じゃあお休み」  引き止める間もなく、リズィもロルジャーカーと一緒に出ていってしまった。アルフレッドソンが言った。 「結局二人になっちゃいましたね」  オルフェアは困った。今は秋である。地上ならまだしも地下に位置するこの工房で、動力のないまま、食堂で二人きりで過ごすには寒すぎるだろう。 (動力がない……?)  ふと、彼女はモンスターたちのことが気になった。 「私、モンスターの様子をちょっと見てきます」 「一人で行くのは危ないですよ。一緒に行きます」  アルフレッドソンは明るく光る湯呑みを持って立ち上がった。  なるほど、先に言われたとおり、まず扉を開けるのが一苦労だった。オルフェア一人では到底開けられなかっただろう。  モンスターたちに別状はないようだった。ただ、ポリマーの部屋で、檻の中にポリマーがいないのに彼女たちは気づいた。 「どこに行っちゃったんでしょう」  オルフェアが心配そうに、灯りを檻の中に差し込もうとするのを、アルフレッドソンは自分がやると言って止めた。  彼が檻の中に手を入れた途端、何かが殴りつけてきた。咄嗟に手を引っ込めたが、腕には青あざが残った。 「どうしたんですか」 「何かが突然殴ってきたんです」  オルフェアはそれを聞いて、今一度、檻をよく観察した。よく見れば、檻の格子が妙なところに一本増えているようだ。ポリマーの変化に違いなかった。もう一体のポリマーは壁に化けていた。  珍しい事例に、オルフェアは痛く感心したようだった。「研究室に行きます」と上の空で湯呑みを取り、そのまま出ていってしまった。アルフレッドソンは仕方なくそのあとを追った。  研究室でこの新たな観察結果を記録したあと、二人は食堂に戻った。だが、夜半の冷え込みは容赦なく、ここで一晩を過ごすのは無理に思えた。オルフェアはまだ躊躇っていたものの、とうとう諦めて言った。 「向こうの部屋に行きましょうか。あっちのほうが狭くて暖かいから」  アルフレッドソンは、ごく普通に「そうしましょう」と答えただけだった。あまりに普通の言い方だったので、何事もなく朝を迎えられるかもしれないと、オルフェアは少し気分が軽くなった。リズィとの二人部屋は、現在はリズィがロルジャーカーと一緒にいるようなので、アルフレッドソンとロルジャーカーが使っている部屋に入ることにした。隣はジルウィンとダルフェリルの部屋だった。  扉を苦労して開け、また苦労して閉めているアルフレッドソンを見て、オルフェアは尋ねた。 「…どうしてキャントリップを使わないんですか?」  今までもアルフレッドソンは素手で戸を開けていたが、それは小魔法(キャントリップ)の使用回数を考えて、取ってあるのだと思っていたのだ。もう使ってもいいと思うのに……。 「魔晶宮からの供給がないから使えないんです」  アルフレッドソンはやや苦い顔で答えた。彼からすれば、オルフェアの質問の意味がよくわからなかった。 「ああ、そうなんですか。不便ですね」  オルフェアは納得したように口にすると、指を鳴らした。途端に扉が軽くなって、ガン、と、勢いよく閉まった。アルフレッドソンはもう少しで指を挟むところだった。 (彼女は魔晶宮と関係なく魔法を使えるのか……)  そういえば先ほども、動力が切れた中でコンティニュアルライトを使っていた。どうやらそういう人種らしいことは薄うす感じていたが、意識して見たのはこれが初めてだった。  ガン、という大きな音に、ジルウィンはベッドから起きだした。とうとうあの二人も観念して、隣の部屋に移動したらしい。  彼女はそちらの壁ぎわに椅子を引いて座った。ペンとインクと羊皮紙をしっかり用意して、聞き耳をたてた。 「毛布でいいですか」  オルフェアは言いながら、寒さをしのぐために、やはり小魔法(キャントリップ)で毛布の温度を上げた。アルフレッドソンに片方の端を渡し、自分はもう一方の端にくるまった。アルフレッドソンは何も言わなかった。  オルフェアは気になって彼の顔色をうかがおうとした。と、腕の青あざに目がとまった。 「ご、ごめんなさい、これ、さっきの怪我ですね。待ってください。今、手当てしますから」  彼女は申し訳なさそうに言ってアザの様子を調べ、一晩冷やしたほうがいいと、湿布を当てて包帯を巻きだした。  アルフレッドソンはずっと無言でその様子を見ていたが、包帯を巻き終わろうというとき、 「オルフェアさん!!」  包帯を巻かれていたのとは別の手で、治療中の彼女の手をしっかり握った。オルフェアに驚く隙も与えず、畳みかけた。 「あなたが好きです!!」  オルフェアが真っ赤になるのが見えた。首筋まで赤い。何か言おうとしながら何も言わずに俯いた彼女のあごに手をかけ、やさしく引き上げた。そのまま唇を重ねた。彼女が瞳を閉じるのが見えて、アルフレッドソンは灯り代わりの湯呑みを伏せると、静かに身体を重ねていった。  隣室では、ジルウィンが刻々と聞き得た出来事を書き連ねていた。「あなたが好きです!!」のあとの沈黙が、あまりにあからさまに事を物語っていたので、ジルウィンはわくわくするのを止められなかった。  ベッドではダルフェリルが(奥さん、まだかな〜。そろそろ終わらないかな〜。眠れないんだけどな〜)と、横になりながら寝られずに過ごしていた。ジルウィンのわくわく感が、さっきからずっと自分の心に届いているので、彼もわくわくになってしまって眠れないのだった。それでも、ジルウィンが楽しそうであれば彼は幸せだった。仮令(たとえ)その幸せが隣室の覗きに起因するものであっても。  明け方、ぶしつけに扉を叩く音で、リズィは目覚めた。まだ朝が早く、空気は冷たい。地下ではあまり関係ないが、日も昇っていないに違いない。 「だれ?」 「私だ」  予想に反して、表から聞こえたのはジルウィンの声だった。いったい何事だろうと、リズィは訝った。ジルウィンは(鷹族という触れこみの割に)たいがい最後に起きてくるのに。  扉を開けるなり、「レポートだ」と、羊皮紙を手渡された。 「こんな時間にすまんが、読んでくれ」  レポートも何も、昨日は彼女は何もしなかったはずだが、と、首を傾げながら読み進めるうちに、リズィは思い切り吹き出した。羊皮紙には、アルフレッドソンとオルフェアが手前の部屋に入ってから、アルフレッドソンが彼女を押し倒すまでの経緯が事細かに書かれていた。 「ロー君、ロー君、ちょっと!!」  笑い転げながら、彼女はこの楽しさをロルジャーカーにも分け与えようと、部屋の中に声をかけた。それを見て、ジルウィンはやっぱり書いてよかったと、至極満足したのだった。  朝食の時刻になっても、件の二人は起きてこなかった。皆、気を利かせてそのまま寝かせてやることにした。ダーネルも喜び、「今日はあの二人はお休みにしよう」とまで言った。  そんなことがあってから、一年の4分の1ほどが過ぎ去った、118年11月30日。 「ダーネル卿!」  アルフレッドソンは、最近は買い出し以外ではほとんど食事時にしか顔を会わせないダーネルを運良くつかまえた。彼は勢い込んで「俺たち、結婚します!」と言った。 「ほう、ついに結婚するか。それは目出度い」 「できれば彼女に指輪を贈りたいんです。指輪だけは、なんとかならないでしょうか?」  ダーネルは微笑んで、 「指輪だけなどと言わずに、式を挙げてはどうかね。式といってもささやかな祝宴程度のものだが」 「ああ、オルフェアさんもきっと喜びます」  アルフレッドソンは嬉しそうに肯いた。 「ついでにあちらの二人も式を挙げておくか」  ダーネルはそう呟いて、ダルフェリルを呼んだ。  およそ祝い事とは縁のなかったダルフェリルに「結婚式」のことを説明するのは一苦労だったが、ダルフェリルもジルウィンも互いに「相手が喜びそうだから、式とやらを挙げてもらおう」という気になった。  ダーネルは早速アルフレッドソンとダルフェリルを連れて、街へ買い物に出かけた。指輪はもちろんのこと、せっかくだからとドレスや礼装用の衣服も買うように二人を促した。  ダルフェリルはいくつか候補を決めてから、ジルウィンに心で映像を送り、「どれがいい?」と尋ねた。ジルウィンは「これ」と、自分の好きな衣装を選んだ。  アルフレッドソンは、そのような特殊技能は持ち合わせていなかったが、自分が選んだモノがオルフェアに似合わないはずがないという絶大なる自信の元に、指輪からイヤリングから手袋に至るまで一つ一つ選びあげていった。  ダーネルは金に糸目をつけず、好きなだけ買うように言った。それらの準備を新郎たちが整えている間に、自身は祝宴用の料理の仕出しを頼みに行った。  118年12月8日。 (本当にいいのかしら、このまま一生………)  祝宴の当日になっても、オルフェアはマリッジブルーを消せずにいた。なんだかいいように煽られてここまできた気がして、躊躇いを捨てることができない。  と、リズィの声がして、彼女は現実に引き戻された。 「はい、できた」  リズィはそう言って、着付けの仕上げにヴェールをふうわりと被せてくれた。 「あ、ありがとう…」  もう覚悟を決めなければならなかった。周りからこれだけの好意と祝福を受けて、それを覆すことはオルフェアにはできなかった。彼女はこの結婚が今は亡き養父の心に適うものであることを祈り、心の中でそっと彼に詫びた。  祝宴はささやかだったが、皆にとっては晴れやかな一日となった。この日は善き日、幸福な一日だった。  婚礼の祝宴が終わって少ししてから、ダーネルはアルフレッドソンを捕まえて提案した。 「せっかくだし、結婚記念に二人きりで旅行でも行ってきたらどうかね?」  アルフレッドソンは一も二もなく賛同した。「データ取りが……」と、研究の中断を気にするオルフェアを説き伏せ、3、4日、カノカンナ地方へ行くことになった。  ダルフェリルとジルウィンもどうかという案があったのだが、ダルフェリルを外に出すのはまだまだ危険であることと、場所がどこだろうと一緒であれば十分満ち足りている二人が外出にはことさら興味を示さなかったことから、彼らには新婚旅行はご遠慮願った。 「この欄を埋めていってくださいね」  オルフェアは旅行に出る前に、ジルウィンにデータの計測と記入の方法を教えた。書き込みやすい書式をわざわざ作って渡したが、「わかった」とにこやかに請け負ってくれるジルウィンを前に、自分でデータを測定できない不安を消すことはできなかった。やはり今度帰ってきたらデータ測定から記述までの自動化プログラムを作ったほうがいいかもしれない、などと、出かける直前まで頭を悩ませていた。  出がけに、リズィがアロマキャンドルを餞別に渡してくれた。いつもの安眠用のキャンドルだろうと思ったオルフェアは礼を言って、その香りを楽しみに荷物にしまった。  118年12月19日。  冬でもカノカンナはそれほど寒くなかった。海からの風さえなければ、工房より暖かいようにすら感じた。  ダーネルに転送円で送ってもらって、二人は小さな別荘に入った。長いこと使っていなかったらしく、靄がかかったように古びた屋内を、まずは小魔法(キャントリップ)で明るくきれいにした。この日は荷を解いたり家の中を見て歩いたり使いやすく整えたりするだけで終わってしまった。食事は久しぶりにオルフェアが腕をふるい、料理を作った彼女もそれを食べたアルフレッドソンも満足した。  翌20日は、朝早くから街へ行った。予想通り、街の一角で市が立っており、二人はいろんな品を眺めて歩いた。果物や野菜の値段が高めで、むしろ肉のほうが割安なことに驚きながら、オルフェアは食材を買い込んだ。アルフレッドソンは、酒類の通りで何種類か試飲をして、口当たりのいい葡萄酒と、かなりきついどぶろくとを少しずつ選んだ。  いったん別荘に戻り、ランチバスケットをこしらえた。それから歩いて岬へ向かった。  途中で、ロバの見せ物を見た。円形に囲まれた柵の中に何の変哲もないロバが2頭いるだけなのだが、傘状の藁屋根から看板が下がっており、たどたどしい文字で「コレガえーるヲノムろばデス」と書かれている。そばにひとはおらず、エールの小瓶だけが積まれていた。柵には木箱が取り付けられていて、どうやらエールの代金をここに入れるらしかった。  アルフレッドソンは面白がって、幾ばくかの代金を木箱に入れると、エールをロバに飲ませてやった。オルフェアの心配をよそに、ロバたちはうまそうにエールを飲み干した。  岬の岩場でバスケットを広げた。向こうのほうに釣り人たちが見えた。そのすぐそばにはペリカンたちが鎮座ましましている。どうしてそんなところでぼんやり立っているのか不思議に思っていると、釣り人らが釣り上げた小魚をときどきペリカンに投げてやっているのが見えた。売り物にならないような獲物は、彼らの胃袋に入る取り決めらしい。  夜、オルフェアが外を歩きたいというので、アルフレッドソンもついて出た。さすがに空気は氷が張るように冷たかった。魔法の灯りに軽く笠をかぶせて岬の近くまで歩いた。だれもいない、磯に寄せる波音しかしない。木々のない開けた岩場で立ち止まり、オルフェアは夜空を見上げた。降るような星空だった。  アルフレッドソンが、星を見にきたのかと問うと、以前はこうしてよく星を見たのだと彼女は答えた。それから、どれが何の星座であるかなどと珍しく自分から話しだした。そういえば「空を見上げる」ことは、今の工房ではできない贅沢だったなと、アルフレッドソンは思い当たった。やはり来てよかったと、彼は妻を見ながら思った。  そんなふうにのんびり過ごして、彼らが工房に戻ったのは3日後のことだった。 「お帰り」  廊下の向こうから、リズィが声をかけてきた。オルフェアはただいまと返したあとで、思い出したように、 「リズィさん、あ、あのアロマキャンドル、ローズとサンダルウッドとイランイランの組み合わせじゃないですか」  少し詰るようにリズィに言った。 「そうだよ。それがどうかした?」 「ど、どうかしたって……わ、私、てっきりいつもと同じのだと思って……」  いつもの安眠用アロマだと思っていたそれは、ちょっぴり刺激的な夜を過ごすためのものだったのだ。 「だってせっかくだもの。で、どうだった?」  そう聞いた途端、オルフェアは顔中を真っ赤に染めた。泣きそうな声で「知りませんっ」と言ったきり、リズィの脇を自室のほうへ走り抜けた。  ふと見ると、オルフェアの去ったあとにアルフレッドソンが立っていた。彼はにやりと笑ってみせた。自分の餞別が役に立ったらしいとわかって、リズィもにやりと笑い返した。  彼らが転送円を使ったのは、これがほとんど最後だった。  このころになると魔晶宮からの魔力供給の停止は、ほぼ週に一度の割合で頻発するようになった。まもなく、ダーネルはその財産のあらかたをつぎ込んで、工房専用の小型魔晶宮を作り、所内に設置した。おかげで魔力が切れることはなくなったが、逆に、非常に大きな動力を喰らう装置は動かせなくなった。そのため大喰らいの転送円は部屋から撤去され、二度と使われることがなかった。  119年12月24日。  珍しく来客があった。ダーネルがわざわざ呼んだらしいその女性は冒険者風で、魔晶石も持っていたが、自分自身でも魔術を使える人間のようだった。  オルフェアはダーネルに頼まれて、お茶を煎れお菓子を用意して応接室に入った。軽く会釈してその女性に給仕した。 「美味しいお茶ですね」  女はオルフェアに微笑みかけた。オルフェアは嬉しく思って彼女に微笑み返した。そうして部屋を出るより前に、ダーネルと彼女の会話が聞こえた。 「男を捜している。刃身にルビーの挟まった剣の形をしたペンダントを持っているはずだ」  ダーネルは女にそう言って、ダイヤモンドを1個渡した。 「前渡しだ。もし探し出してくれたら、もう一つ同じものを」 「わかりました」  女はダーネルの依頼を受け、早々に立ち去った。  1ヶ月後、女は一人の少年魔術師を連れてやってきた。成功報酬を受け取ると、今度も早々に立ち去った。  少年は猫耳のついたフードを被り、胸には刃身にルビーの挟まった剣の形をしたペンダントを提げていた。彼はアルナハトと名乗った。猫耳とペンダントに触られるのを極端に嫌がる以外は、大人しい普通の少年に見えた。工房の日常はいつまでも続くかと思われた。