■間奏曲第7■「渡る世間に」■  3月22日、昼。  トーラファン邸からパシエンス修道院の焼け跡へ帰る道すがら、ヴァイオラはあることを思い出した。彼女はクレマン院長に断って、館へ引き返した。受け入れ態勢を整える手伝いをすると申し出、作業しながらさりげなくトーラファンに尋ねた。 「マウエッセン? とかの娘って、今、どうしているんですか?」  トーラファンの返答はあまり頼りにならないものだった。 「その後しばらくは、ラストン預かりになっていたな。でもラストン崩壊以降どうなったかは知らない。ハイブ騒動のときには、優秀な魔術師も多く犠牲になったからなぁ。生きていても不思議ではないし、死んでいても不思議ではない。そんなところかな」  ヴァイオラはクロム=ロンダートの嗜好についても尋ねてみたが、元同僚のくせにこれまた「知らない」と返され、得るところはなかった。  なんだか夢を見ていたらしい。  ラクリマは揺り起こされて、ぼろぼろと泣きながら目覚めた。 「ラクリマさん?」  Gの心配そうな顔が目の前にあった。 「……Gさん? カインさん? 私……?」  あたりをぼんやり見回すうちに、自分がどこにいるかがわかってきたようだった。慌てて飛び起きた。 「私、寝ちゃったんですか…!?」 「いいじゃないか。一晩中起きてたんだろう?」  Gは、「寝て何が悪い」といった口調で彼女を弁護した。それまで黙っていたカインが、 「トーラファンさんの屋敷に仮住まいするので、これから移動するそうだ」  言いながら、彼女を立たせてやった。  向こうでは大人たちが、何か拾っていったほうがいいものがないかと、焼け跡を点検していた。少数の金属器や銀製のイコン枠と、石の柱以外はすべて洩らさず焼き尽くされているとわかったので、結局、その場で持ち出した身の回り品だけを持っていくようなことになった。 「悪いが『赤竜』亭に行くから、ここで別れよう」  Gは、トーラファンの館には行きたくなかったので、仲間に断った。セリフィアはすかさず「宿まで送っていこう」と申し出たが、「大丈夫だ。ひとりで帰れる」と、Gに断られた。 「そうか」  彼は振り返った先で目についた小石を蹴った。その様子を見て、ラクリマがやや遠慮がちに口を開いた。 「あの、こちらは大丈夫ですから、皆さん、どうかご自分のことをなさってください」 「いや、少しぐらい手伝わせてくれ。世話になったんだから」  カインがそう言うのを聞いて、セリフィアも気を取り直した。そうだ、ここにはとても世話になった。だから、自分も何かを返したいと思っていたじゃないか。 「じゃあ気をつけてな、G。あとで会おう。カイン、向こうを手伝おう」  セリフィアは、Gに声をかけてから院長やサラのいるほうへ歩き出した。Gはその彼の背中を何か言いたげに見ていたが、やがて足を宿のほうへと向けた。  アルトもこの時点で皆と別れて「青龍」亭へ帰った。トーラファンの館には近づかないほうがいいと、釘を指されていたからだ。彼は宿に戻って小魔法(キャントリップ)で、ドルトンに見せる蜂蜜を作り出した。そのあとは静かに部屋で過ごした。  修道院の引っ越しには半日かかった。荷物はたいしてなかったのだが、人間の移動そのものに時間がかかったのだった。それでも昼前には住み替えも終わり、ラクリマは午後から焼け跡へ後かたづけに向かった。手伝いにきてくれた近所の人びとも交え、焼け崩れて瓦礫となり果てた煉瓦や石組みを、台車に積んでは捨てに行くという単純作業を繰り返した。 「セリフィア、仕事を探しに行こう」  午後になって、カインはセリフィアを誘って言った。もともと夜に臨時の仕事をしたいというのはセリフィアが言い出したことで、二人は冒険者ギルドまで出かけていった。  ギルドは、夜間の臨時雇いの口を3つ紹介してくれた。一つ目は、セリフィアが前回やった城門の警備だった。いつ来ても口があるらしい。二つ目は下水の掃除で、これは二人とも即座に断った。3つ目の貴族の護衛は、1gpという日給でなかなか値頃だった。  その護衛の依頼主は、ワーチス=ベアレスという老騎士で、最近護衛の人数を増やしているらしかった。カインは思いだした。ワーチス=ベアレスといえば、マイケル=リーヴェン時代に参入した冒険者あがりの初老の騎士だ。重鎮というわけではないが、実力があることと、古参であることから信奉者も多かった。政治には積極介入していないものの、ディーン王には何故か従っており、彼に剣の手ほどきをしたこともあるという。確か既婚で、今も健在の妻との間には3人の息子と二人の娘がおり、全員独立している。ワーチスは、年をとって性格が温厚になったというが、未だに怒ると恐いという話も聞いていた。  カインがざっとその騎士について説明をすると、セリフィアもその仕事に惹かれていたらしく、すぐにこの臨時雇いに乗ろうと話が決まった。ただ、仕事は夜の8時から翌朝6時ごろまでとハードで、今日は午前中パシエンスで十分働いてきたことから、実際の勤務は明日からにしようということになった。 「明日またいらして、その場であらためて申し込んでください」  冒険者ギルドの受付はそう言って、次の人間の相手を始めた。  Gはパシエンス修道院から宿へ戻り、向かいの「赤竜」亭に入って昼ご飯を食べた。そのまま夕方になったら、歌を歌って少しでも稼ごうと思い、それまでの間はここで情報収集しようと聞き耳を立てた。特に、エイトナイトカーニバルの情報がどう普及しているかが知りたかった。  エイトナイトカーニバルの情報は、「やや一人歩きの感あり」といった感じだった。以前より確実に廃れたようで、噂の根元はなくなったらしいと確信できた。Gは安心して、夜に「青龍」亭に帰ったときにみんなに報告しようと思った。  夕方になって、彼女は歌を歌いだした。実入りはまずまずで、店に1spを支払ったものの4spが手元に残った。  ふと、気づいた。奥のテーブルにセリフィアが座っている。手前にジョッキがあるが、彼が酒類を飲むわけがないからお茶か何かだろう。 (うわっ、恥ずかしい……)  Gはまずそう思い、自分の今の格好を見直した。彼女は、実入りがよくなるようにと、宿の主人から借りたドレスを着ていた。胸が広く開いており、下の裳にはひらひらとフリルが施されていかにも「女装」といった感じで、彼に見られるのは恥ずかしかった。 (どうしてここにいるのかな。パシエンスのことがあったから、心配で迎えに来たのかな)  迎えといっても、道を挟んで真向かいの宿から宿に移動するだけなのだが。  もっとも、5分であろうと1分であろうとも、このフィルシムでは事故や事件が起きるには十分な時間だから、「どうして来たんですか」とは聞かずにおいた。  セリフィアはGの歌を聴きながら、ただそれが終わるのを大人しく待っていた。せっかく酒場にいるのだから情報収集でもしたらどうかという向きもあるだろうが、そもそも酒の臭いがだめな彼にしてみれば、酒場にじっとしているだけでも誉めてほしいくらいだった。それに、自分は他人からあまりよく思われないようだから、下手に手を出すよりは揉めごとを起こさないように静かにしていたほうがいいだろう。  Gが着替えて出てきたので、セリフィアは立ち上がって「一緒に帰ろう」と申し出た。Gは頷き、セリフィアと並んで「赤竜」亭を出た。「青龍」亭に入る直前に、Gはセリフィアに尋ねた。 「明日もサラさんの手伝いですか?」  ラクリマは、夕方、トーラファンの館へ戻った。へとへとだった。夕食の準備をしなければならなかったが、その前に少しだけ、一人になりたいと思った。他に知っている場所がなかったので、以前に写本の仕事をしていた図書室に足を向けた。  図書室にはだれもいなかった。ラクリマはまるで目の前にトーラファンがいるかのように詫びを言ってから部屋に入り、半刻ほどぼんやりと過ごした。 (……夕食の支度を手伝わなきゃ)  腰を上げて図書室から出るや、フィーファリカとばったり出くわした。  ふと思いついたように、ラクリマはフィーファリカに尋ねた。 「フィーファリカさんは……ここにいて幸せですか?」  フィーファリカは満面の笑みを浮かべて即答した。 「はい! ご主人様はとってもよくしてくださいますし、私のことを大切にしてくださいます。私はご主人様の元に生まれて幸せです」  ラクリマは知らず、ほっとしたような表情になった。 「そうですか。ありがとうございました」  それだけ言ってその場を離れた。  カインはセリフィアが「赤竜」亭に行ってしまったあと、近くの酒場に潜り込んで冒険者たちや町の人びとの話に耳を傾けた。  気になったのは、 「最近街道でウェアウルフをよく見かけるって」 「獣人っていなくなったんじゃないんだ」 「とんでもない。街道でよく襲われるんだと」 という会話と、 「ラストンは本格的にダメだな。壊滅したって話だぞ」 「だからか。商人ギルドが食糧の買い占めをしているって話もあるしな」 「宿の飯代もあがるし、やっていきづらいな」 「まったくだ」 という二つの会話だった。特に後者は、また生きにくくなるなと思って、聞きながら顔をしかめていた。  ヴァイオラは夕方、盗賊ギルドから帰ってきたロッツの報告を受けた。彼はピタリとジールの行方を捜し出してきたのだった。ヴァイオラは彼を労い、明日、そのあたりまで案内してくれるように頼んだ。  Gは夕食のときに、エイトナイトカーニバルの噂はもうフィルシムでは流れていないらしいと、仲間に伝えた。部屋に戻って、考え考え手紙を書いた。  3月23日。  Gとカイン、それにセリフィアは朝からパシエンス修道院跡へ出かけた。ラクリマや他の修道院の人びとはもう働いていた。Gとカインは彼らに合流して片づけを手伝い始めた。  ヴァイオラもパシエンスの院長に会いに行くため、焼け跡まで同道した。院長はトーラファンの館にいるらしく、ヴァイオラはロッツを連れてそこからトーラファン邸へ向かった。  セリフィアは、昨日、パシエンスのサラに許可を得たので、隅にある家庭菜園で麦と芋とを育てる準備にかかった。  昼になる少し前、Gはラクリマにサラ宛ての手紙を彼女に渡してほしいと頼んだ。ラクリマは快くそれを引き受け、ついでにGにブラスティングボタンを見せた。 「何かのときのために、覚えていたほうがいいかと思って」  ラクリマはセリフィアにもボタンを見せた。今朝方ロッツにも見せたので、このボタンを見ていないのは、あとはアルトだけになった。  Gは昼ごろ修道院を抜け出して、ウェポンマスタリーの道場へ向かった。エリオットに会うためだった。彼女は昼休みで休憩中のエリオットのところへ赴いた。 「わざわざ、連日私のところに来てくれるなんて、私のことが忘れられなくなったかな」  エリオットは嬉しそうに言った。冗談ではなく、本気でそう思っているようだったが、Gはそれも気にせず、エイトナイトカーニバルの迷宮について、この間より詳しく聞きたいと頼み込んだ。エリオットはGにうまく乗せられ、次のようなことを喋ってくれた。 「ホントは、ギルティに口止めされてるのだが、愛しのGのためならば、話そう」  エリオットはそう言って語りだした。  まず、迷宮の入り口を探すには『石』を探すことだ、と、彼は言った。だがこれ以上は契約に障るから喋ることができないのだと、残念そうに付け加えた。  エイトナイトカーニバルの迷宮では、8つの部屋の試練を受けなければならない。試練の順序は自由だということだった。力押しでできるところもあれば頭や魔法を使わなければならないところもある。あまり無理をせずに休養を取りながら進められるが、外に出ると二度と中に戻れない。  8つの部屋のクリスタルを集めて所定の場所に入れると、最後の試練を受けられる。それをクリアするとマジックアイテムが手に入る仕掛けだ。アイテムボックスは16個あり、一カ所は既に空いていた。エリオットたちも成功したので、今では二カ所が空いていることになる。  彼は親切にも、簡単な地図まで描いてくれた。 「これ以上は契約に反するから、いかに君とはいえ話すことができない。ああ、何と悲しいことか」  エリオットは大仰に悲しんでみせた。ついで、Gの肩を抱き寄せようと手を伸ばした。 「エリオット!」  Gは彼を叱りつけ、その手をぴしゃりとはたいた。それから怒ったように、 「この間から気になってはいたのだが、ガラナークの成人男子が許可も得ずに女性に触れるとは節度がなさすぎる! 騎士にもなろうという立派な男子はもっと高潔でなければ。相手の身分がどれだけ低かろうと、自分にとってどれだけくだらなく思える存在であろうと、女神の形代に敬意を表してこそガラナークの騎士。フィルシム傭兵のようなマネをしてはいけない!」  一気にまくしたてた。  説教が終わったところで、エリオットが口を開いた。 「では、祖国ガラナークのためにも、君に認められる男になろう」 (……は?)  Gはエリオットが何を言ったのか、理解できなかった。  と、彼はいきなり跪いて、Gの手の甲に接吻した。それからにっこり微笑むなり、ゆうゆうと修行場のほうへと戻って行った。 (……通じてない。……絶対に通じてない)  残されたGは呆然と立ちつくした。 「今日はアルトさんはいらっしゃらないんでしょうか?」  ラクリマはセリフィアに尋ねた。 「ああ、なんか宿でやることがあるって言ってた」 「そうですか……」  ラクリマは礼を言ってセリフィアから離れた。アルトのことを聞いたのは、彼にもブラスティングボタンを見せようと思っていたからだ。借り物なので、ラクリマとしてはできるだけ早くトーラファンに返したかった。  昼の休憩時に、「私、ちょっと『青龍』亭まで往復してきます」とラクリマが修道院の仲間に断っているのをカインは聞きつけた。彼は武器を手に取り、背後から声をかけた。 「危ないから俺も行こう」  ラクリマは振り返った。ややためらうような気配を見せたが、「お願いします」と結局は好意に甘えることにした。  アルトは宿の部屋で熱心に本を読んでいた。ブラスティングボタンを見せられると、手に取って「これが…」と暫く熱心に見つめていた。 「貴重なものをありがとうございます」 「いいえ」  アルトから丁寧にブラスティングボタンを返され、ラクリマはこれで今晩トーラファンに返却できると思ってほっとした。  修道院跡へ戻る道すがら、ラクリマは今度はカインにあることを尋ねた。直接の関わりはないのだが、ずっと気になっていたことだった。 「あの……気になってるんですけど……他のお仲間はどこにいらっしゃるんでしょう?」  彼女は少し遠慮するような口調で続けた。 「その……ジェラルディンさんは何かおっしゃってませんでした?」  カインは別にラクリマの言葉に傷つくふうもなく、ちょっと考え込む素振りを見せた。 「他の皆はフィルシムで静養中、とのことだったが……おそらくはジェラと同じように操られているだろう。本当にあいつら、今ごろどこに……」  やおら、彼はハッとした表情を見せた。 「!? そう言えばジェラが言っていた。『ファザードさんの世話になっている』と。ファザードとはもしや……」  最後はほとんど独白だった。それを聞き咎めたラクリマは、 「ファザードって……? どなたかお知り合いですか?」 と、質問を投げた。カインは簡単に説明した。それによれば、どうやらジェラルディンにハイブを運ばせたパーティの代表らしかった。 「……ロッツさんに聞くか、ヴァイオラさんに相談したほうがよくありませんか?」 「………」  カインは考え込んだまま、答えなかった。それでこの話はここで途切れた。  ヴァイオラはロッツを連れてトーラファン邸へ行き、クレマン院長に会ってある頼み事をした。それから変装して貧民街へ向かった。  ロッツの情報どおり、その路地には目的の女性、ジールがいた。ひどくやつれた様子で、疲れ切っている。他にも数人の親子連れがいたが、彼女は他と離れて座っていた。そばに2歳ぐらいの彼女の子供がおり、日がさんさんと当たる中を一人で元気に遊んでいる。よく母親に叱られていたが、小言の半分は八つ当たりに近かった。 「では、あっしはここで失礼させていただきやす」  ロッツは小声で囁いた。すっとヴァイオラのそばから離れ、そのまま姿を消した。  ヴァイオラは二人にさりげなく近づいていった。子どもに笑顔を向け、あめ玉をやって機嫌をとり、一緒に遊び始めた。  最初のうちは見ているようで見ていなかったジールだったが、見かけない女性が娘に近づいていることに気づき、楽しそうに遊んでいた娘の腕を引っ張って引き離した。娘は痛そうな顔をしたが、慣れているのか泣きはしなかった。 「あんた、私の子になんか用?」  彼女はそう言ってヴァイオラを睨みつけた。 「あら、ジールじゃない久しぶり! ほら、私よ、ヴァイオラ!」  ヴァイオラは明るく切り出した。 (ヴァイオラ? そんな知り合いいたかしら……)  ジールの顔に戸惑いが浮かぶのを彼女は見逃さなかった。 「やだ、忘れちゃったの? ほら、あそこの店で」 と、ロッツに聞いていた酒場の名を出して、 「ホント久しぶりよね。あなたも元気みたいじゃない?」  にこにこしながら娘の頭を撫でつつ、畳みかけた。 「最近どうしてたのよ。あのあとずっと見かけなかったから気になってねー。そうね、いい天気だし、ちょっと散歩でもしない? あっちの公園でさっき美味しそうな匂いがしてたわよ」  ひたすら親しそうにしながらぐいぐいとリードをとった。  ジールは相変わらず訝しがっているものの、知っている店の名前が出てきて多少警戒を解いたのか、ヴァイオラに押し切られるかたちになった。娘のほうは、そんな母親の姿を怖れと不安の入り交じった表情で伺っているようだ。  ヴァイオラは二人を近くの公園に誘い、くず肉の屋台を見つけて串焼きを自分とジールに買った。子どもにはミートボールの付け合わせに売られていたトウモロコシパンを買ってやった。  適当な場所を見繕って並んで座り、それらをパクつきながらしばらく雑談した。その中で子どもの名前はアズというのだとわかった。  しばらくして、ジールはまた疑いを蒸し返してきた。 「ところで、あんただれだっけ? なじみの客じゃないし、女のひとにこんなに優しくされる覚えはないけど」 「あはは、やだなぁ」  ヴァイオラはぱたぱたと手を振り、 「そんな小さいこと、気にしないでよ。私は気にしないからさー」 と、笑顔でジールの肩を叩いた。だが相手の表情は晴れなかった。彼女本来の性格なのか、このところの荒んだ生活のせいなのか、ジールはすっかり疑心暗鬼になっているようだった。彼女は再び口を開いた。「何が目的? もしかして人買い?」  ヴァイオラはふいに真面目な顔になり、ジールの目を真っ向から見返した。 「私は……そう、あなたにとっての道しるべ、かな」  アズの頭を撫で、ちょっと笑ってみせた。 「道しるべってね、おおまかな行き先が書いてあるでしょ。人はそれを見て自分の行きたい方へ歩いていくわけ。---道しるべはただそこにあるだけで、その道を行くかどうかは歩く人が選ぶべきこと」  手にした串で地面にY字を書きながら、 「こっちの道は今まで通り、アズを育てながら貧民街での生活。で、こっちは私が指し示す道、ちっこい修道院に下働きとして、アズと一緒に住み込みで生活」  ジールに目を戻し、尋ねた。 「どっちの道を進む?」  少しの間があった。  ジールは何とも言えない表情を浮かべつつ、やっと口を開いた。 「修道院が、勧誘を行わなければいけないほど人手不足になるとは思えないけど……別に今の生活に満足しているわけではないけど、あんたのメリットは? あんたの話に無条件で飛びつくほど、莫迦じゃないわよ」  言葉は悪いが、瞳は真摯そのものだった。自分の真意を探ろうとしているのだと、ヴァイオラは思った。彼女は、「自分の身内がとある人に恩を受けたが、その人はずっとジールが幸せに暮らしているか気にしていたので、恩を返す意味でもちょっとお節介をした」と簡単に説明した。また、本当はもっとゆっくり知り合いになってから話をもちかけたかったが、自分がもうすぐこの街を離れなければならないので急いだことも言い足した。  ジールはヴァイオラの話をとりあえず信じたようだった。 「今の生活よりはましになるでしょ。いいわ、行ってみる」 と、頷いた。  ヴァイオラはジールを伴って斡旋先の小修道院へ向かった。面通しを済ませ、娘のアズをその場に預けてから元の住処へ荷物を取りに行き、再び修道院に戻ったころには、すっかり日も暮れようという時分になっていた。そこまで見届けたところでヴァイオラは手紙を取り出し、ジールに渡した。 「気が向いたら読んでみて」  手紙にはセロ村の近況と、「ジールを気にかけていた人」がサラで、パシエンス修道院にいることなどが書いてあった。  ヴァイオラはサラのことは言わなかった。話をすればジールは引け目を感じずにはいないだろう。それよりは心身共に落ち着いて、自分から会いにいく決心がついたらそのときに会いに行けばいい。サラにもこの件はしばらく話さないつもりだった。  あとはジール本人に任せることにして、ヴァイオラは彼女たちと別れ、いったん宿に引き上げることにした。クレマン院長に礼を言うためトーラファン邸へ行くのに、だれかを供に連れていこうと考えたからだ。  今朝方、ヴァイオラが「どこかの修道院関係で、住み込みの母子を雇ってくれるところはないですか」と頼んだとき、クレマン院長は何故とも聞かずに答えた。 「来るもの拒まず、去るもの追わず、ですけれどね」  生活は厳しいし、溶け込む努力もそれなりに必要で、肌が合うかどうかは本人次第ですよ、と言われたが、それでも頼んで紹介してもらった、それがさっきの小修道院だった。  ヴァイオラは「青龍」亭に戻った。2階へ階段をあがっていこうとしたとき、上からエステラが泣きながら降りてきた。ヴァイオラにも気づかず、そのまま宿を出ていった。階段を上りきると、部屋の扉の前で、得も言われぬ表情で立ちつくすセリフィアが見えた。 (何をやってるやら)  何をやってエステラを泣かせたものか、あとで聞いてみようと思いながら、ヴァイオラは部屋に入った。  ヴァイオラが帰る半刻ほど前、エステラが宿の部屋を訪ねてきた。  不在のはずでは、と、驚くセリフィアとアルトに彼女が説明したことには、先日応対した店の丁稚は新米で、慌てて1ヶ月先の暦を見て「いない」と言ったらしい。実際にはエステラはあのとき、ちょうどセリフィアに頼まれたものを仕入れに行っていたという話だった。  エステラはセリフィアに近づき、他の人間に聞かれぬよう声を潜めて、あるものを差し出した。 「セリフィアに頼まれたモノを持ってきました。これは私が初めて最初から最後まで自分の力で仕入れました。お気に召すかどうか……」  それはランの花の種だった。セリフィアは喜んで代価を支払った。それから、グレートソードを下取りに出したいことと、ロングボウと矢を一式購入したいこととを告げた。エステラは下取りを了承し、仕入れについてもロングボウならすぐに用意できると請け合った。親切に、今晩にもだれかに届けさせると約束してくれた。  セリフィアは礼を言いつつエステラを送りがてら、部屋の外に出たところで内密の相談があると頼んだ。エステラはお付きのミットルジュ爺さんに1階で待つよう頼み、自分はセリフィアの言葉を待った。セリフィアは一つ深呼吸してから、「あなたに女性としてアドバイスを求めたい」と、話しだした。 「仮に、だ。特になんとも思ってない男から気持ちを伝えられたとして。あなたはどう思い、どう対処する? 率直な感想を聞かせてほしい。それは、仮令(たとえ)どうでもいいような男からでも伝えてもらったほうがよいものなのか? あるいは、いろいろやりにくくなると面倒だから黙っててもらったほうがよいものなのか?」  セリフィアの表情は真剣そのものだった。内容の真意はともかく、それだけは十分に伝わったはずだった。  彼は必死の面持ちでエステラの答を待った。  だが結局、答は得られなかった。  彼女は少し驚いたあと、あからさまに困惑した顔を見せ、やがて目の端から大粒の涙を流し始めた。 「ごめんなさい。言われている意味がよくわからなくて。あなたの真摯な態度を見ていると、なんだかあの人を思い出してしまって……ごめんなさい」 と、涙を拭くや、返答を全くしないまま足早にその場を去ってしまった。  今度はセリフィアが困惑する番だった。彼は激しく困った顔をして、その場に立ちつくした。 (何も泣かなくてもいいのに……)  アドバイスを得られなかったことをやや不満に思いながら、部屋に入ろうかと考えたところをヴァイオラに目撃されたのだった。  部屋にだいたい全員が揃ったので、夕食にしようということになった。ヴァイオラも、トーラファン邸へ行くのは食後で構わないだろうと思い、みんなで「青龍」亭の1階に降りた。一同が夕食を食べ終えたころ、ドルトンたちが現れた。 「これ、Gさんから渡してほしいって頼まれました」  ラクリマはトーラファン邸に帰ってすぐ、サラに手紙を渡した。それは紙を折り畳んで紐で結んだもので、外側にも「サラさんへ G」と書かれていた。  サラは(何だろう…)とやや訝しく思ったものの、それを顔には出さず、「ありがとう」と笑顔で受け取った。彼女はすでに食事を済ませていたので、自分にあてがってもらった個室に戻り、手紙を開いてみた。  手紙にはかっちりした字で、こう書かれていた。 〜・〜〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜 サラさんへ 私はラクリマさんの旅仲間のGといいます。 約束が嘘になってしまいました。 ラクリマさんを守れませんでした。 敵からラクリマさんの身体は守ったけど、私がラクリマさんの知りたくないような昔の事を考え無しに教えてしまって、そしたらラクリマさん笑ってました。 そのあと、後悔して謝ったら「なにがですか?」って聞かれました。 そういう風に辛い事を無かった風にしちゃう人が、ガラナークでは一番発狂しやすい人だから、とても心配です。ラクリマさん壊してしまったかも知れません。私が言った事はラクリマさんにとってとても辛い事だったみたいなんです。 私はラクリマさん大好きだけれど、私はラクリマさんの特別じゃないから、ヴァーさんが言うみたいに「クレリックたる者の試練」って信じて見まもるのが一番良いんだと思います。 でも、サラさんには、ちゃんと信頼している人には、どうしてもの時、弱みが見せられるんじゃないかと思うんです。私が言うのはおかしいですが、どうか、ラクリマさんを助けてください。どうかおねがいします。 G 〜・〜〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜  読み終わって、彼女は(返事を書かなければ)と思った。だがすぐにはいい文面が思い浮かばなかった。夜中まで何度か推敲を重ねて、やっと返書を書き上げた。  明日の朝、ラクリマに渡してくれるよう頼もう、そう思いながら彼女は、目の前にいないラクリマに心で語りかけた。 (いい友だちを持って、よかったね)  彼女の負ったものが何でありどれだけ重いかは自分には測り知れないけれど、いい仲間がいれば、きっと大丈夫。きっと。  Gからの手紙をきちんとしまうと、サラは部屋の灯りを吹き消した。